<藤原氏>式家

F201:藤原宇合  藤原鎌足 ― 藤原宇合 ― 藤原清成 F202:藤原清成

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藤原清成 藤原種継

 父・宇合の死去と同じ年(天平9年[737年])に息子・種継が誕生しているにも関らず、六国史等に清成個人の活動の記録が全く残されていない。考えられるのは、父・宇合の死から3年後の
天平12年(740年)に広嗣が起こした藤原広嗣の乱の影響である。この乱に連座して年長の兄弟のうち、在京の次兄・良継や弟・田麻呂らは連座して官位剥奪の上に流罪となり、広嗣の許にいた弟・綱手は兄と同罪として処刑されている(当然、官位は剥奪されている)。恐らくは清成も乱に関与したとして処刑されたか、流罪となった良継らが帰京を許された天平14年(742年)を待たずに病没したものかのいずれかと考えられる。 

 『続日本紀』では天平神護2年(766年)に従六位上から従五位下への昇進記事が初出で、2年後の神護景雲2年(768年)には美作守に任ぜられている。
 光仁天皇即位に尽力した式家の政治的な発言力が上昇するとともに、順調に昇進した。特に叔父である良継・百川の死後は、宇合の孫の中で最年長者であった種継が式家を代表する立場になった。
 天応元年(781年)4月桓武天皇の即位に伴い従四位上に昇叙される。桓武天皇の信任が非常に厚かった種継は急速に昇進を果たし、延暦元年(782年)参議として公卿に列し、延暦3年(784年)中納言に叙任される。
 延暦3年(784年)、桓武は平城京からの遷都を望み、種継は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱した。桓武の命をうけ藤原小黒麻呂,佐伯今毛人,紀船守,大中臣子老,坂上苅田麻呂らとともに長岡を視察し、同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。
 遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も五百枝王,藤原雄依,紀白麻呂,大伴永主など複数にのぼった。
 その後、事件は桓武天皇の皇太子であった弟早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後、長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになったことも含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。
 種継は死後、桓武天皇により正一位・左大臣が贈られ、大同4年(809年)には太政大臣が贈られた。 

藤原薬子 藤原仲成

 長女が桓武天皇の皇太子安殿親王の宮女となり、東宮宣旨(高級女官)として仕えるようになると安殿親王に愛され不倫の仲となった。薬子は藤原葛野麻呂とも通じていたとされる。桓武天皇は怒り、薬子を東宮から追放する。
 806年、桓武天皇が崩御して安殿親王が即位する(平城天皇)と、薬子は再び召され尚侍となる。夫の縄主は大宰大弐として九州へ送られる。天皇の寵愛を一身に受けた薬子は政治に介入するようになる。兄の藤原仲成とともに専横を極め、兄妹は人々から深く怨まれた。大同4年(809年)、亡き父の藤原種継に太政大臣を追贈させる。
 同年、平城天皇は病気のため同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。退位した平城上皇は平城京へ移る。このため平安京と平城京に二所の朝廷が並ぶようになり、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になった。
 大同5年(810年)9月10日、嵯峨天皇は平安京にいた仲成を捕らえて、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。平城上皇は薬子と挙兵のため東へ向かったが、嵯峨天皇は先手をうって坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえた。勝機のないことを知った平城上皇は平城京に戻って剃髮し、薬子は毒を仰いで自殺した。仲成も殺された(薬子の変)。

 延暦4年(785年)父・種継が暗殺されたことから、若年ながら従五位下に叙された。桓武朝では出雲介・越後守・山城守・大宰大弐・大和守・伊勢守と地方官や、衛門佐・弁官などを歴任する。
 平城朝では妹の尚侍薬子が天皇の寵愛を受けたこともあり、仲成は重用され権勢を誇ったが、陰険で専横な振る舞いが多かったために人々から憎まれたという。また、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変にも関与していたともされ、変後仲成は右兵衛督・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に任ぜられ公卿に列した。
 同年に平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇とともに平城京に移り上皇の重祚を画策して二所朝廷の対立を招く。大同5年(810年)6月観察使制度の廃止により参議となる。しかし、9月6日の平城上皇による平城京への遷都命令により平城上皇・嵯峨天皇の対立が激化すると、9月10日嵯峨天皇に先手を打たれて捕縛、右兵衛府に監禁の上、佐渡権守に左遷され、翌日紀清成,住吉豊継の手により射殺された。
 仲成の射殺を最後として以後、平安末期の保元の乱まで中央では死罪は行われなかったと言われているが、仲成に対して行われた「射殺」という処刑方法は養老律にある斬・絞の方法とは異なり、かつ一旦正規の左遷手続が下された相手に行われていることから、法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている。
 欲が深い性格で、酒の勢いで行動することがあった。親族の序列を無視し、諫止にも憚ることがなかった。妹の薬子が朝廷で自分の思うままに行動するようになると、その威を借りてますます傲り高ぶるようになり、王族や高徳者が多く陵辱を受けた。
 妻(笠江人の娘)の叔母が非常に容貌が優れていたことから仲成は好意を寄せるが、嫌われて言うことを聞かなかったため、力づくで意に沿わせようとした。そのため、叔母は佐味親王の許へ逃げ込むが、仲成は親王とその母(多治比真宗)が住んでいた家にあがりこみ、叔母を見つけると暴言を吐き道徳に反する行動に出た。仲成が殺害されるに及び、人々は「自らの行いが招いたことだ」と思ったという。 

藤原縵麻呂

 延暦4年(785年)父・種継が暗殺されてまもなく、兄・仲成とともに従五位下に叙せられる。桓武朝において、皇后宮大進,大判事といった京官や、相模介,相模守,因幡守,豊前守等の地方官を歴任する。またこの間の延暦23年(804年)には正五位下から正五位上に昇叙されている。平城天皇の即位を挟んで、大同3年(808年)までには従四位下に至り、同年右大舎人頭兼美濃守に任ぜられる。
 弘仁元年(810年)兄弟の仲成・薬子が薬子の変で死去するが、縵麻呂は難を逃れたらしく、翌弘仁2年(811年)大舎人頭に任ぜられている。弘仁12年(821年)9月21日死去。享年54。
 愚鈍な性質で、書類作成もままならなかった。大臣(種継)の子息であることを以て、内外の諸官を歴任したが、どの官職でも名声を得ることはできなかった。ただ酒色のみを好み、他のことを顧みることはなかったという。