延暦年間末期より明法家として知られるようになり、大同年間初期に大宰少典・左大史を歴任する。大同3年(808年)外従五位下・大外記に叙任され、遅くても弘仁2年(811年)までには明法博士に任じられていた。弘仁4年(813年)物部(無姓)から物部中原宿禰に改姓すると共に大判事に任じられる。 弘仁格式撰修の功労によって正五位上に叙されるなど、嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進を果たした。また、嵯峨朝では藤原冬嗣の元で『弘仁格式』、淳和朝では清原夏野に元で『令義解』の撰修に参画している。特に『令義解』の撰修においては、編者における明法家(ほかに讃岐永直・川枯勝成・漢部松長)の筆頭として、敏久の解釈が『令義解』の注釈をリードしたと想定される。 『令集解』に載せられている「物記」「興大夫云」「原大夫云」「物云」は敏久の発言・学説を引用したものとされている。また、その明法勘文は『法曹類林』や『政事要略』にも採録されている。 一説では嘉祥2年(849年)7月20日卒去。享年62。
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