<神皇系氏族>天神系

SZ04:鈴木重時  穂積真津 ― 鈴木基行 ― 鈴木重善 ― 鈴木重時 ― 鈴木重政 SZ05:鈴木重政

リンク
鈴木重三(正三) 鈴木重成 鈴木重辰

 天正7年1月10日(1579年2月5日)に三河国加茂郡足助庄生まれる。長男ではあるが家を継がず、別に一家を興している。鈴木家は弟重成が継承した。
父の代から徳川家康に従い、初陣は関ヶ原の戦いの際に本多正信隊に参加して徳川秀忠を護衛した。その後の2回の大坂の陣でも武功を挙げて200石の旗本となった。
 三河武士であった正三は常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降、仏教に傾倒し職務の間を縫って諸寺院に参詣した。
 1619年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖』を書いてこれに反論し、翌年42歳で遁世し出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、正三は主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済んだ。正三の家も秀忠の命により養子の重長を迎え存続が許されている。
 臨済宗の大愚宗築や曹洞宗の万安英種らに参禅した後、故郷三河に戻って石平山恩真寺を創建して執筆活動と布教に努めた。
 島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆して切支丹の教義を理論的に批判した。日本仏教史においては正三の『破切支丹』は優れた仏教思想書として高く評価されている。
 晩年は江戸の四谷の重俊院、牛込の了心院を拠点に布教活動を続け、天草住民への重税に抗議して切腹した弟の重成の後を継いだ自分の実子の重辰を後見し、天草の復興事業にも尽力し、明暦元年6月25日(1655年7月28日)に亡くなった。
 その武士時代から常に生死について考えてきた正三は、より在家の人々に近い立場で仏教を思索し、特定の宗派に拘らず念仏などの教義も取り入れ、仁王・不動明王のような厳しく激しい精神で修行する「仁王不動禅」を推奨し、在家の人びとには『萬民徳用』を執筆して、「世法即仏法」を根拠とした「職分仏行説」と呼ばれる職業倫理を重視し、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。
 また、在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利用し、『因果物語』,『二人比丘尼』,『念仏草子』などを執筆して分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。

 徳川家康,秀忠に仕え、大坂の役にも従軍。200石を知行する。兄2人が別家していたため、元和6年(1620年)父・重次に家督を譲られ、もとの200石とあわせて計700石を知行した。
 寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱では追討使・松平信綱に従って戦地入りし、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰されている。戦後の寛永18年(1641年)、天領となった天草の代官に任じられる。
 当時の天草は、この地を支配していた唐津藩主の寺沢広高,堅高2代にわたって為された過酷な収奪と、乱による荒廃で疲弊を極めていた。重成はこの地域への植民を促進し、寺沢氏の算出した石高を疑問視して再検地を実行した。また、踏絵を執行する傍らで兄・正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧めたり、彼の手による『破切支丹』を刊行したりと硬軟織り交ぜたキリシタン統制も行った。
 承応2年(1653年)、江戸の自邸で死去。享年66。  天草の経済的復興には限界があると痛感した重成は、幕府に対して年貢米の減免を建議した。再三の要請にもかかわらず、それは聞き容れられることがなかったため、承応2年(1653年)、訴状を残して江戸の自邸で自刃を遂げた、という話が伝わる。また、抗議のために江戸城の門前で切腹した、などとする話もあり、幕府代官職の抗議自殺に幕府は驚き、慌てて減免を前向きに検討し実現したとされるが、後世の作り話の感が強い。

 鈴木正三の長男であるが、父は出家し甥の重長を養子にして家を継がせたため、重辰は叔父の重成の養子となり、のちに分家して一家を興した。
 寛永9年(1632年)、大番役。のちに御倉奉行、京都御所造営役をつとめる。寛永14年(1637年)、重辰とともに島原の乱に出陣。その後、養父重成は天草に留まり、のちに初代天草代官となった。
 承応3年(1654年)、重辰は養父に代わり天草の2代目代官になる。天草復興などに活動し、任期中の万治2年(1659年)6月には養父が実現できなかった天草の石高半減に成功している。
 寛文4年(1664年)、京都代官に就任する。また山城国と上総国であわせて500石を知行する。寛文10年(1670年)京都で死去。享年63。
 のちの天明7年(1778年)、重辰は実父の正三とともに、重成を祀った鈴木神社に合祀され、天草復興に尽力したとして現在でも天草に祀られている。