賀茂真淵,本居宣長,平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる。 寛文9年に京都において神官の子として生まれる。元禄10年(1697年)より妙法院宮尭延法親王に仕官したが、元禄12年(1699年)に暇をもらい、元禄13年(1700年)3月には勅使として江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して一緒に江戸下向した。 経光卿は役目を終えると早々に帰京したが、春満はそのまま江戸へ残らせてもらい、江戸の武士たちに歌学や神道の教授を行うようになった。この江戸滞在中に赤穂浪士に吉良義央在宅確実の日である茶会の日を教えたという。江戸滞在中の享保8年(1723年)に将軍・徳川吉宗に招かれて幕臣となり、享保12年(1727年)まで仕えたが、胸の病に罹り、享保13年には養子の荷田在満に家督を譲った。享保15年(1730年)には中風にかかり、元文元年(1736年)に死去した。享年68。 荷田春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、国家意識を強くして古典及び国史を学び古道の解明を試みた結果、『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、復古神道を提唱するなどの業績を残した。享保13年(1728年)には、著作『創学校啓』を江戸幕府に献じて、将軍・徳川吉宗に国学の学校建設の必要性を訴えた。 赤穂事件で有名な大石良雄とは旧知の友人であったといわれてきたが、一面識もなかった。大石は吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出してこの日を討ち入り決行の日と定めたとされてきたが、事件当日に堀部金丸宅で大石良麿・良穀兄弟より春満からの情報を聞いたとき初めてその名を知った。それも来客が泊まるようなので討ち入りは延期したほうがよいという情報だった。
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1728年(享保13年)江戸に出て有職故実について幕府の下問に答え、その後御三卿の一人田安宗武に仕えた。1739年(元文4年)『大嘗会便蒙』を出版したが、朝廷の秘儀を公開した罪で筆禍をこうむり、100日間の閉門に処せられた。また、賀茂真淵を田安宗武に推挙している。 著書に有職故実関係の『令三弁』『装束色彙』や、『国歌八論』『白猿物語』がある。
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