中国(後漢王朝)渡来系

YA06:大蔵種資  東漢 掬 ― 東漢爾波伎 ― 大蔵広隅 ― 大蔵種資 ― 田尻実種 YA11:田尻実種

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田尻実種 田尻鑑種
 寿永年間(1182~84)に大宰大監原田種成の3男実種が、筑前国から筑後国三池庄田尻邑に移り住み、田尻三郎を称したことに始まるという。

 戦国時代は筑後国山門郡南部を領有。田尻鑑種の姉の乙鶴姫は、蒲池鑑盛の正室であり、田尻氏と蒲池氏は縁戚関係にあった。蒲池鑑盛が耳川の戦いで討ち死にした後、家督を継いだのは甥の蒲池鎮漣だった。鎮漣は、当初は龍造寺隆信の尖兵としてその筑後進出に協力したが、やがて不和が生じ、難攻不落として知られた柳川城に籠城し、隆信と戦った(柳川攻め)。この対立を仲裁したのが鑑種だった。その後、蒲池鎮漣が島津氏と通謀していたことが発覚したため、田尻鑑種は龍造寺隆信と相計り、翌年、鎮漣を肥前に誘い出して謀殺した。続いて隆信は、鑑種に柳川に残る鎮漣の一族の討伐を命じた。鑑種は、柳川城の攻略だけを考えていたが隆信は鎮漣一族の皆殺しという冷酷な命令を鑑種に下したため、鍋島直茂の督戦の下、これを渋々実行した。こうして同族同士が相撃つ凄惨な柳川の戦いが繰り広げられ、柳川の蒲池氏は滅びた。
 鑑種もやがて龍造寺隆信と不和が生じ、龍造寺氏へ反旗を翻すが、その後和睦し再びその幕下に入ることとなる。