KDR2:百済王朝2 | 百済王朝2 ― 津 王牛 | TW01:津 王牛 | ● |
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津 王牛 | 菅野真道 |
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名は麻呂とも記される。百済王辰斯王の子である辰孫王の後裔を称する王辰爾の弟。津連の祖。 |
光仁朝末の宝亀9年(778年)少内記に任じられ、桓武朝初頭の延暦2年(783年)外従五位下に叙せられる。この間、右衛士少/大尉,左兵衛佐といった武官や近江少目,同大掾,摂津介(摂津守)と畿内の地方官を歴任した。延暦4年(785年)安殿親王(のち平城天皇)の立太子にあたって、内位の従五位下に叙せられ、東宮学士に任ぜられる。延暦9年(790年)連から朝臣への改姓を上表し、居住地に因んで菅野朝臣の姓を賜与されている。 |
菅野永峰 | 津 主治麻呂 |
淳和朝末の天長8年(831年)従五位下に叙爵する。承和4年(837年)、かつて父の菅野真道が桓武天皇に奉るために建立した山城国愛宕郡八坂郷にある八坂東院と呼ばれていた道場一院について、永岑は院の周囲を寺地と定め別院として僧侶1名を置き長く桓武天皇の護持に当たらせることを望み、許されている。主殿頭と斎院長官を務める一方、承和6年(839年)豊前守、承和7年(840年)伊予介と仁明朝半ばには西国の地方官も兼ねた。承和8年(841年)従五位上に至る。 | 元正朝の養老6年(722年)5月に遣新羅使に任ぜられる。この時の正七位下という位階は、歴代の遣新羅使の正使の中で最低であり、よって大使の呼称は使用されていない。元明上皇の崩御を告げる役目があったとされている。5月末に元正天皇に拝謁して渡海し、12月下旬に帰国を果たしている。 |
津 真麻呂 | 津 秋主 |
聖武朝の天平17年(745年)2月21日付治部省移に「正七位下行少録津史真麻呂」と署名している。孝謙朝の天平勝宝4年(753年)4月の大仏開眼会では雅楽大允として唐中楽頭を奉仕した。 |
右兵衛府少直を経て、聖武朝末の天平20年(748年)外従五位下に叙せられる。天平宝字2年(758年)8月の淳仁天皇即位後まもなく、秋主ら一族34人が以下を言上し史姓から連姓に改姓する。同年11月には内位の従五位下に叙せられた。 |
菅野庭主 | 菅野高年 |
従五位上まで昇進した後、平城朝の大同3年(808年)木工頭に任ぜられる。嵯峨朝に入ると、大同4年(809年)正五位下、大同5年(810年)4月には藤原真夏,紀田上ら平城上皇派の官人らとともに叙位を受けて正五位上と続けて昇進するが、同年9月に薬子の変が発生すると安房権守に左遷された。
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承和10年(843年)6月に古事を知る者として内史局(図書寮)において『日本書紀』の講読を開始し、ほぼ1年間かけて翌承和11年(844年)6月に完了させた。 |
菅野弟門 | 菅野良松 |
承和元年(834年)に兄弟と思しき中科継門が中科宿禰から菅野朝臣に改姓しており、この時に弟門も改姓したと思われる。仁寿4年(854年)外従五位下に叙せられ、斉衡2年(855年)尾張介に任ぜられる。 |
左大史を経て、清和朝中期の貞観11年(869年)外従五位下・加賀介に叙任されるが、翌貞観12年(870年)備中介に遷る。その後、内位の従五位下に叙せられ、陽成朝の元慶6年(882年)但馬介に任ぜられるが、就任早々、「但馬国の出挙に用いる正税の雑稲は74万束であるが、年月を経て減少し、現在確認すると不足した状態になっている。ついては、隣国の穀を譲り受けて不足分に充当したい」旨、言上する。これは許されて、丹後国の不動穀4000斛、因幡国の不動穀6000斛が但馬国に譲られた。 |
菅野高松 | 菅野宗範 |
貞観元年(859年)左大史の官職にあったが、清和天皇の大嘗会にて大内記・高階菅根とともに装束司判官を務め、大嘗会終了に際して揃って外従五位下に叙せられた。 |
左衛門少尉を経て、貞観2年(860年)従五位下に叙爵する。貞観6年(864年)駿河介に任ぜられるが、翌貞観7年(865年)正月に豊後介、4月に薩摩守と九州地方の地方官に遷る。その後も、貞観12年(870年)正月に安房守、7月に河内介と、清和朝前半に地方官を歴任した。 |