中国(北斉王朝)渡来系

CHN7:北斉王朝  北斉王朝 ― 高 寿覚 TK01:高 寿覚

リンク
高 寿覚 深見大誦

 中国の南北朝時代の北斉の事実上の創建者となった高歓(北魏・東魏の権臣で、渤海王に封じられた。本貫は渤海郡)の末裔と称する。
 明の時代、福建省漳州府出身の医師・高寿覚は、慶長初年の日本に渡り、薩摩国に暮らした(薩摩島津氏の領国である日向国都城とも)。慶長14年(1609年)ないしは15年(1610年)頃、高寿覚は中国に帰った。この高寿覚が大誦の養父(実父とも)にあたる。

 慶長7年(1602年)12月、都城の安久にあった正応寺の門前に暮らしていた鎌田新右衛門に次男が生まれ、寿覚はこの子供(以下大誦)を嗣子として迎えた。実子という説もある。
 大誦が16歳の元和3年(1617年)、寿覚を訪ねて中国に渡った。寿覚はほどなく死去したが、大誦はその後10年あまり中国各地を遍歴した。寛永6年(1629年)に日本に帰国し寛永7年(1630年)には養父母の供養塔を都城に建立した。
 帰国の3年後、招聘されて薩摩藩主・島津家久に仕えた。寛永7年に薩摩にて示現流開祖の東郷重位に発見されて中国に行っていたことが発覚。重位より藩主島津光久に伝えられて取り立てられ、一覧という名を賜った、ともいう。
 寛永18年(1641年)、長崎奉行所の小通事となり、2年後には大通事となった。大誦を通事に推挙したのは、長崎在住の儒医・陳明徳(潁川入徳)で、長崎奉行から薩摩藩主に書状が送られ、薩摩を離れて通事職に就いたという。なお、大誦は先祖が渤海郡に発すること(あるいは渤海王であること)にちなんで「渤海久兵衛」と称していたが、読まれにくいとして、通事となったころに同じ読みの「深見」に改めた。万治2年(1659年)に引退するまで約20年に渡り通事の職にあった。
 通事の職にあった間、逸然の要請に応じて隠元隆琦の招請メンバーに檀越として加わった。寛文5年(1665年)には宇治黄檗山萬福寺に赴き、木庵性瑫の江戸行き(隠元の跡を継いで住持となったことを将軍・徳川家綱に報告するための旅)に随行し、通訳を務めた。

深見貞恒 深見有隣

 玄岱の祖父である高寿寛は渤海出身の福建省漳州の人で日向国都城に渡来し、その後帰国した。父である高大誦は、16歳で父を訪ねて帰国し各地を遍歴した経験があり、寛永6年(1629年)に長崎に移り住んで唐通事(通訳)として活躍した。石橋を寄進し、また隠元隆琦の招聘メンバーに名を連ねる名士であった。
 玄岱は父が47歳のときに次男として生まれる。黄檗僧独立性易に師事して経学・医学を学び、その傍ら書法や篆刻をも会得する。天和・貞享年間に噂をきいた薩摩藩に招かれ儒医となったが、病のために致仕しその後20年間は長崎で暮らす。流麗な草書は林道栄とともに長崎の二妙と謳われ、後に唐様の書家として市河米庵などが賞賛している。
 宝永6年(1709年)に新井白石の推挙によって江戸に出て、室鳩巣,三宅観瀾とともに幕府の儒官として仕える。正徳度の朝鮮通信使に詩文を応酬して称賛された。『大清会典』の翻訳を手がけている。友人の榊原篁洲らに篆刻を指南し、初期江戸派の形成に関ったと目されている。この頃池永一峰の『一刀万象』に序文を寄せている。
 享保3年(1718年)、平林寺(埼玉県新座市野火止)に師独立を記念して戴渓堂を建立。独立の持仏を祀り、木牌に行状(『明独立易禅師碑銘幷序』)を記した。同6年に儒官を退いたのち、翌年8月、74歳にて没し上野東叡山護国院に葬られた(のち多磨霊園に改葬)。

 江戸時代中期の幕臣、儒学者。徳川吉宗の側近学者の一人で寄合儒者から書物奉行に転じ、翻訳・考証に業績を残した。清朝の総合法典『大清会典』や西洋科学技術書『奇器図説』の翻訳、古典籍の書写・校訂にあたったほか、長崎在住中国人から清朝の制度などに関する情報を聴取し、また甘藷(サツマイモ)の普及にも関与している。
 兄の玄融(高頤斎)が幕府に儒者並として出仕したが、享保3年(1718年)2月16日に「狂気」を理由として父のもとに籠居させられた(玄融はのちに書家として名をなした)。父も連座して出仕差止の処分を受けた(のちに赦される)。
 享保3年(1718年)10月19日、父の致仕を受けて有隣は家督を継ぎ、儒者となる。享保6年(1721年)から5年間をかけて、清朝で編纂された総合法典『大清会典』を父とともに翻訳(父は享保7年(1722年)没)『大清会典和解』を編纂した。『大清会典』は、清王朝の制度や典礼を集めた書籍(会典)で、清代を通じて5回編纂されている。徳川吉宗はこれに深い関心を示して手許近くに置いていたようである。『徳川実紀』によれば、吉宗は深見玄岱,有隣親子に『大清会典』の翻訳を命じた。このころ吉宗は側近学者たちにさまざまな研究課題を与えており、深見父子の『大清会典』和訳もその一環であった。玄岱の中国語能力の高さには定評があったが、その玄岱をもってしても法制に関する知識が必要で、なおかつ膨大な『大清会典』の翻訳は難しい作業であったようである。
 享保6年(1721年)10月、有隣は「唐国及阿蘭陀国筋の御内用」のために江戸を出発して長崎へ出張した。長崎在留の中国人たち(儒医の孫輔斎や沈爕庵らと考えられる)に問い合わせながら『大清会典』の翻訳をすすめた。長崎滞在は結局足掛け5年に及ぶこととなった。長崎滞在中の有隣は、紅葉山文庫のための書籍収集にも携わっていたほか、清朝の諸制度に関する吉宗の質問を長崎滞在中の中国人・朱佩章(福建省出身)に問い合わせる役割の一部を担った(吉宗の質問は、荻生北渓から長崎の有隣に伝えられ、有隣は通訳を介して朱佩章に問い合わせた)。
 享保17年(1732年)の享保の大飢饉を受け、備荒用作物としてサツマイモの栽培を徳川吉宗に建言したのは有隣であるという。
 享保19年(1734年)8月8日、書物奉行に転じる。浅井奉政の死去に伴う補充であった。元文4年(1739年)12月18日、書籍校合のことで黄金3枚を賜わった。これは、火災で家蔵資料を失った二条家から依頼されていた、紅葉山文庫所蔵の『二条家日次記』写本を書写するとともに、関連諸資料の調査・書写・校合を行う作業を桂山義樹とともに終了させたことへの褒美である。
 また、有隣と桂山義樹は、西洋の科学技術書『奇器図説』の翻訳を行っている。これは、中国に派遣されたイエズス会士ヨハン・シュレック(ヨハン・テレンツ、鄧玉函)の説明をもとに王徴が著した漢文書籍『遠西奇器図説録最(中国語版)』を、日本語に翻訳したものである。後年、吉宗側近学者の論考を集成した叢書『名家叢書』に収録された。
 また、幕府天文方の観測所詰を命じられてもいる。
 有隣は30年にわたって書物奉行の席にあった。上記の他の業績としては『類聚国史』『明月記』の校訂などがある。相役の書物奉行となった人物には、小田切昌倫,近藤舜政らがおり、また青木昆陽が同時代に書物方に出仕している。
 明和2年(1765年)4月11日、西城御裏門番の頭に移る。同年12月18日布衣を着ることを許される。同5年(1768年)5月9日辞職して寄合となり、翌6年(1769年)12月4日隠居。安永2年(1773年)2月15日没、83歳。代々の墓地である寛永寺の護国院に葬られたが、1926年7月に他の墓石とともに多磨霊園に改葬された。