<皇孫系氏族>景行天皇後裔

TE06:禰寝清重  建部穂並乃君 ― 禰寝清重 ― 禰寝重長 TE07:禰寝重長

リンク
禰寝重長 禰寝重張

 天文12年(1543)、大隈半島南部の禰寝氏は、種子島代恵時の悪政を糺すとの名目で種子島に来襲し、種子島氏を破り屋久島を奪った。城ヶ平城は屋久島を手に入れた禰寝氏が、種子島氏の攻撃に備えて築城途中の山城である。しかし翌13年、屋久島奪還を企てた種子島氏から攻撃を受け、禰寝氏は城ヶ平城から敗走した。
 永禄4年(1561年)、肝付兼続に従って大隅国内に出陣する。その後も肝付氏に従って島津氏と戦ったが、兼続の死で肝付氏の形勢が不利になると、元亀4年(1573年)、島津義久と単独で和睦した。このため、肝付兼亮と伊地知重興に攻められることとなったが、これは島津軍の援軍によって撃退している。
 また、重長は内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。温州みかんの栽培を日本で最初に行った人物といわれている。  

 天正8年(1580年)に父・重長が死去したため名跡を継ぐ。しかし、文禄4年(1595年)、太閤検地の影響により、それまで領有していた根占七ヶ郷から吉利村3,200石余へ移封となった。
 慶長5年(1600年)、重張は伏見屋敷の警衛役として京にあったため同年8月の伏見城の戦いに参加、重張は伏見城へ先登して軍功を立て、9月15日の関ヶ原の戦いにも参加したが、敵中を突破しての退却の途中で義弘ら本隊とはぐれる。重張は頼実という僧侶を含めた主従4人と共に洞穴の中に隠れていたところを捕えられ、大坂の山岡景宗の元へ送られ獄舎に入れられた。唯一、頼実のみは僧侶ということで許されていたのであるが、その頼実が自らの知人を介して景宗と浅野幸長に重張の赦免を請うたため、重張は獄舎より出された。そして、広島へ向かい文職という僧侶の元に身を寄せた後(学問のためという)、翌慶長6年(1601年)1月15日に薩摩国へと戻った。
 寛永6年(1629年)に死去。その際、主君・島津家久が追悼の和歌を詠んでいる。

禰寝重永 禰寝清雄
 元和8年(1622年)、薩摩藩主・島津家久の8男として生まれる。母は鎌田政重の娘。幼名は康千代。寛永11年(1634年)、家久の命で九弟の福寿丸に代わって禰寝家を相続する。寛永19年(1642年)、八番組頭役となる。慶安2年(1649年)、藩主・島津光久の使いで江戸城に登城して、将軍・徳川家光に拝謁する。寛文7年(1667年)、隠居して家督を嫡男の清賢(清雄)に譲り、三兄・島津忠朗の領地加治木に隠棲した。貞享5年(1688年)8月23日死去、享年67。 

 明暦2年(1656年)、2代藩主・島津光久が加冠役となって元服する。寛文7年(1667年)、光久の命で禰寝家を相続する。寛文8年(1668年)四番組頭、番頭役を務める。延宝元年(1673年)、3代藩主・島津綱貴帰国許可の答礼使として江戸に下り、江戸城で4代将軍・徳川家綱に拝謁する。延宝3年(1675年)、番頭役として江戸に勤務する。延宝9年(1681年)、綱貴より大隅国の農政を司るよう命を受ける。元禄元年(1688年)、綱貴の命で御詰職となる。
 元禄5年(1693年)、綱貴の命で執事職となり、職禄2000石を賜る。元禄6年(1694年)、綱貴の供をして江戸に出府し、江戸城で5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。同年、大日本史編纂事業を進める、前水戸藩主・徳川光圀の希望により、禰寝家の系図や文献を閲覧させた。元禄9年(1697年)、長年の精勤を賞され、職禄1500石を賜る。元禄10年(1698年)、上野寛永寺本堂手伝普請の総奉行を務める。
 元禄12年(1699年)1月27日、江戸藩邸で死去。享年54。家督は綱貴の5男・徳慈丸(清純)が養子となって相続した。
 家老としては殖産興業に力を入れ、藩財政を立て直すべく、櫨の栽培を領民に強制し、利益を上げた(櫨は蝋などの原料となった)。清雄は財政が改善したら、栽培強制は廃止すべきであるとしていたが、この制度は明治維新まで続き、薩摩藩の財源になった。しかし維新を迎えると、櫨の多くは強制を恨んだ領民によって切り倒されてしまったという。 

禰寝清純 禰寝清方

 元禄9年(1696年)、3代藩主・島津綱貴の5男として江戸にて誕生。母は江田国重の娘。当初、禰寝清雄の養子であった実兄・愛寿丸が藩命で島津久洪の養子となったため、元禄12年(1699年)に代わって禰寝家の家督を相続する。宝永元年(1704年)、江戸島津藩邸で元服する。宝永2年(1705年)、吉利に初入部する。正徳5年(1715年)、一番組頭,番頭となる。享保7年(1722年)、5代藩主・島津継豊と共に江戸に出府し、継豊の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。
 享保9年(1724年)3月25日死去。享年29。家督は嫡男・清方が相続した。 

 享保3年(1718年)、4代藩主・島津吉貴の清純邸御成の際に御目見する。享保9年(1724年)、父の死去により家督を相続する。享保16年(1731年)、四番組頭,番頭役となる。享保18年(1733年)、5代藩主・島津継豊の帰国許可の答礼使を務め、江戸に出府して江戸城で8代将軍・徳川吉宗,世子・徳川家重に拝謁する。
 享保19年(1734年)2月20日、疱瘡により病死する。享年22。家督は祖父・清雄の外孫・清香(島津久春の次男)が相続した。 

小松清香 小松清宗

 吉利郷私領主の小松家当主で、禰寝(根占)の名字を改め小松氏を称した最初の人物であり、中世禰寝氏の顕彰にも努めた。
 正徳4年(1714年)、島津大蔵久春(島津久明の長男)の次男として生まれる。母は畠山氏。享保9年(1724年)、元服する。父・久春の外祖父が禰寝清雄であったことから、享保20年(735年)に藩主・島津継豊の命で禰寝清方の家督を相続する。延享元年(1744年)、前藩主・島津吉貴の8男の安之助(母は近藤嘉包の娘)を養子とする。
 宝暦6年(1756年)、若年寄となる。同年、養子・安之助が今和泉島津家の家督を継ぐことになり、養子縁組を解消し、改めて実弟の島津仙十郎(清行)を養子とする。宝暦11年(1761年)、藩主・島津重豪に小松氏に復することを許される。明和4年(1767年)、帯刀と改名。明和6年(1769年)、国老職となる。安永2年(1774年)、藩主・重豪の供をして江戸城に登城し、将軍・徳川家治と世子の家基に拝謁する。同年、藩主世子・虎寿丸(島津斉宣)誕生の際に蟇目役を務める。安永4年(1776年)、職禄1000石を賜る。天明元年(1781年)、長年の国老職の精勤を称されて100石を賜る。隠居して家督を養子の清行(清宗)に譲る。天明6年(1786年)10月28日死去。享年73。 

 島津久春の3男として生まれる。母は田中新助国兵の娘。3男のため、本来は三崎氏を称するはずであったが、長兄の久丘に嗣子がなかったので、その養子となり、兄の死去により、その家督を相続して島津大蔵久通と称した。しかし、宝暦4年(1754年)12月13日に今和泉島津家の当主・島津忠郷が死去したため、異母兄の小松清香の養嗣子となっていた安之助が今和泉家を相続することになり、宝暦6年(1756年)2月21日に安之助は小松家を出た(のち、安之助は島津忠温に改名)。
 このため清香の跡取りとして、藩命により島津準二男家当主の異母弟・島津久通が小松家の養子になることが決定する。久通は島津準二男家を隠居して出て、小松家に入り、小松仙十郎清行に改名する。準二男家は、叔父で分家筋の三崎文大夫明見が相続し、島津大蔵久迢と改名する。天明元年(1781年)に清香の隠居をうけて家督相続。
 清宗には子がなく、実家の島津準二男家より久迢の孫である島津久儔の次男を養子に迎える(小松清穆)。 

小松清穆 小松清猷

 出自は島津久明を祖とする一所持格の島津準次男家。島津久儔の次男として誕生。母は町田監物久甫の長女。幼名は松之助。寛政11年(1799年)10月に、一所持小松家の当主で親族の小松清宗の養子となる。清宗は、血統上は祖父の従兄弟であるが、実家においては養玄祖父であり、小松家においては養父という、複雑な関係であった。なお、小松家に入る前は準次男家島津氏の規定により三崎氏を称する。
 文化3年(1806年)に養父の死により、家督を相続。藩では3番目の席次の職である大目付まで昇進し、文政13年(1830年)から天保3年(1832年)まで伊集院郷地頭を兼務。天保11年(1840年)に隠居。薫山と号した。聡明であった次男・清猷が跡を継いだ。しかし清猷は安政2年(1855年)に急死しており、その養嗣子が小松帯刀清廉である。清廉の家督相続後に死去。

 

 天保7年(1836年)、10代藩主・島津斉興に初お目見えし、藩主の加冠により元服。天保11年(1840年)7月19日、父・清穆の隠居により家督を相続した。天保15年(1844年)1月に詰衆になる。同年11月3日、稲荷神社祭式に付き、流鏑馬を勤める。嘉永元年(1848年)12月、藩主・斉興の命で京都に行く。嘉永2年(1849年)12月、當番頭,奉者番に就任。嘉永4年(1851年)5月8日、江戸幕府より鶴を拝領、かつ斉興の子・島津斉彬の家督につき帰国の御礼使を務める。嘉永5年(1852年)、鹿児島城下に帰ると6番御小姓組番頭になる。ひき続き當番頭,奉者番も兼任。 嘉永6年(1853年)には清水郷地頭に就任。同年に1番小姓組番頭に就任し、同年12月には御軍役惣物頭取も兼任した。また、御近習通御軍役方相図の太鼓役兼職した。
 島津斉彬の命にて赴任した琉球において、安政2年(1855年)急死した。
 家督は喜入領主・肝付兼善の3男・尚五郎(後の小松帯刀清廉)が跡目相続し、宮之原主計通哲の養女になった清猷の実妹・小松近が嫁いだ。明治2年(1869年)4月7日、遺骨が琉球より戻り、小松家代々の菩提寺吉利郷の曹洞宗清浄山園林寺に埋葬された。 

小松清廉 小松 近

 維新の十傑の1人。旧名は肝付兼戈。通称は尚五郎のちに帯刀。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された。
 薩摩国吉利(2,600石)領主だった薩摩藩士小松家の当主で、幕末に薩摩藩の家老に出世し藩政改革と幕末政局(薩長同盟,大政奉還など)において重要な役割を果たして明治維新の成就に貢献した。維新後には新政府で参与,総裁局顧問,外国事務局判事などの要職に任じられていたが、直後の明治3年(1870年)に世を去っている。なお、孫にあたる小松帯刀は祖父清廉の維新の功により明治29年(1896年)に華族の伯爵に列せられている。
 父母は次兄の要之介を寵愛しており、乳母も短慮な性格であったため、両親の愛情に恵まれず育ったという。 13,4歳ごろから学問の才覚を発揮し、漢学者・横山安容の下で儒学を修めるが、体質的に虚弱であったことと昼夜を問わない勉学が災いして17歳頃から病に伏せがちの生活を送るようになった。しかし、勉学に対する向上心は衰えることなく、湯治に出向いた先でも地域や身分の異なる様々な人々から知識や考えを吸収していったという。その他、歌道を八田知紀に学び、観瀾,香雪齋と号した。また、病弱ながらも武術の修練にも励み、演武館で示現流を学んでいる。
 安政2年(1855年)正月に21歳で奥小姓・近習番勤めに任じられ、同年5月には江戸詰めを命じられた。しかし在府わずか2ヶ月で帰国を命じられ、同年10月8日に鹿児島へ帰着した。安政3年(1856年)、吉利領主・小松清猷の跡目養子となって家督を継承し、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・近(千賀)と結婚。
 文久元年(1861年)に北郷作左衛門とともに長崎出張を命じられ、1月17日に蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立した。長崎では通詞を雇い、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作,破裂弾・水雷砲術学などを修学、八木玄悦,石河正龍らとともに研究している。帰鹿した同年6月に石河によって忠義臨席のもと電気伝導で水雷を爆発させる実演が行われ、これらの功績によって同年5月18日、島津久光の側役に抜擢されている。10月に入って大幅な人事異動のもと久光体制が確立すると、清廉は御改革御内用掛に任命され、藩政改革に取り組んだ。配下に大久保利通がいた。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都にあって主に朝廷や幕府,諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席した。他方で御軍役掛や御勝手掛,蒸気船掛,御改革御内用掛,琉球産物方掛,唐物取締掛などを兼務して藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校「開成所」を設置した。禁門の変では、幕府の出兵要請に対して消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。
 在京中に土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となった。亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬の妻・お龍の世話をしている。長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸に匿ってグラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上を伴って薩長同盟の交渉を行った。なお薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。
 イギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させた。また英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。第二次長州征討には反対し、慶応3年(1867年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に関与した。討幕の密勅では請書に、西郷隆盛,大久保利通とともに署名している。大政奉還発表の際は藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政・二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。西郷,大久保を率いて薩摩に戻って藩主・島津忠義の率兵上洛を主張する。上洛の随行が命じられるも病によりこれを断念している。明治2年(1869年)9月、明治維新の功により賞典禄1,000石が授けられる。
 新政府においては、総裁局顧問,徴士参与や外国事務掛,外国官副知官事,玄蕃頭などの要職を歴任した。フランスが、江戸幕府の借金を新政府が返済しないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した際、清廉と大隈重信はイギリスから資金を借りてフランスに返済して窮地を脱している。他にも堺事件や浦上四番崩れの交渉を行った。またグラバーや五代友厚とともに、日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設した。
 明治2年(1869年)1月11日には大久保に版籍奉還の申し出を催促し、1月20日に吉井友実とともに鹿児島に帰藩する。同年1月8日付大久保宛書状ではこの頃オランダ人のアントニウス・F・ボードインの診察を受けたことが記されている。小松の病状に関しては万延元年頃から「足痛」を患っており、たびたび入湯による治癒を行っている。明治元年10月8日には「胸痛」、同年12月8日には「肺病」が記されているが、この症状は以後触れられておらず、同年9月中旬には左下腹部の腫瘍の存在を記しており、ボードウィンは切除困難と判断したという。医師は3月10日には長崎で井上馨らと協議し、2月1日に再び帰藩する。2月4日には病気により領地・家格の返上を願い出て、5月15日に官吏公選により退職する。版籍奉還では、久光を説得し率先して自らの領地を返上して範を示し、8月17日には領地返上が許可され、永世禄300石を給せられ、さらに9月26日には賞典禄1000石を給与される。9月には下腹部の腫瘍が悪化し、大阪薩摩掘に借宅する。
 明治3年(1870年)1月には大久保や木戸らが小松を見舞うが、この頃には遺言書を作成している。7月20日に数え年36歳で大阪にて病死し、最期は側室・三木琴(琴仙子)が看取った。明治9年には遺骨が小松家の旧領吉利の園林寺廃寺跡である鹿児島県日置市日吉町吉利の禰寝・小松家歴代墓所に移される。  

 千賀ともいう。小松清穆の4女として誕生。母は島津久逵の長女。
 安政2年(1855年)、小松家当主である実兄の清猷が死去したため、安政3年(1856年)1月に肝付兼善の3男である尚五郎(後の小松清廉)が清猷の跡目養子となって家督を相続。同月に近は、宮之原通哲の養女となった上で清廉の妻となった。なお、清廉より年上であったとされる。安政3年(1856年)4月に当時としては非常に珍しく新婚旅行をし、霧島市栄之尾温泉に2週間滞在した記録がある(有名な坂本龍馬の新婚旅行の10年前)。これには近の父も湯治のため同行していた。
 慶応2年(1866年)1月15日に藩主・島津茂久の命により、清廉が近の姉の子で甥・町田久成の実弟の町田申四郎実種を養子としたので養母となり、実種は小松清緝と改名した。しかし清廉には妾がおり、慶応元年(1865年)に妾・琴との間に庶子・清直が生まれている。明治3年(1870年)に清廉が大阪で死去。その遺言により清廉拝領の1000石のうち800石は庶子の清直に与えられ、近は清直を引き取って養育した。また近自身は100石を一代限りで受け取り、残りの100石は養子の小松清緝が受け取ることになった。養子の小松清緝は同年10月に一旦家督相続するものの、明治5年(1872年)9月25日に家督を清直に譲った。これにより、近は公式に清直の母となり『昭和新修華族家系大成』などでは近を清直の実母としている。また近は、明治7年(1874年)に26歳で死去した琴の墓を、清廉の眠る鹿児島の小松家歴代墓所内に作った。
 明治17年(1884年)に鹿児島にて死去。享年56。墓地は鹿児島県日置市日吉支所の南1kmの宗家小松=禰寝(根占)家歴代墓所の夫の墓の横にある。