TE06:禰寝清重 | 建部穂並乃君 ― 禰寝清重 ― 禰寝重長 | TE07:禰寝重長 | ● |
リンク |
禰寝重長 | 禰寝重張 |
---|---|
天文12年(1543)、大隈半島南部の禰寝氏は、種子島代恵時の悪政を糺すとの名目で種子島に来襲し、種子島氏を破り屋久島を奪った。城ヶ平城は屋久島を手に入れた禰寝氏が、種子島氏の攻撃に備えて築城途中の山城である。しかし翌13年、屋久島奪還を企てた種子島氏から攻撃を受け、禰寝氏は城ヶ平城から敗走した。 |
天正8年(1580年)に父・重長が死去したため名跡を継ぐ。しかし、文禄4年(1595年)、太閤検地の影響により、それまで領有していた根占七ヶ郷から吉利村3,200石余へ移封となった。 |
禰寝重永 | 禰寝清雄 |
元和8年(1622年)、薩摩藩主・島津家久の8男として生まれる。母は鎌田政重の娘。幼名は康千代。寛永11年(1634年)、家久の命で九弟の福寿丸に代わって禰寝家を相続する。寛永19年(1642年)、八番組頭役となる。慶安2年(1649年)、藩主・島津光久の使いで江戸城に登城して、将軍・徳川家光に拝謁する。寛文7年(1667年)、隠居して家督を嫡男の清賢(清雄)に譲り、三兄・島津忠朗の領地加治木に隠棲した。貞享5年(1688年)8月23日死去、享年67。 |
明暦2年(1656年)、2代藩主・島津光久が加冠役となって元服する。寛文7年(1667年)、光久の命で禰寝家を相続する。寛文8年(1668年)四番組頭、番頭役を務める。延宝元年(1673年)、3代藩主・島津綱貴帰国許可の答礼使として江戸に下り、江戸城で4代将軍・徳川家綱に拝謁する。延宝3年(1675年)、番頭役として江戸に勤務する。延宝9年(1681年)、綱貴より大隅国の農政を司るよう命を受ける。元禄元年(1688年)、綱貴の命で御詰職となる。 |
禰寝清純 | 禰寝清方 |
元禄9年(1696年)、3代藩主・島津綱貴の5男として江戸にて誕生。母は江田国重の娘。当初、禰寝清雄の養子であった実兄・愛寿丸が藩命で島津久洪の養子となったため、元禄12年(1699年)に代わって禰寝家の家督を相続する。宝永元年(1704年)、江戸島津藩邸で元服する。宝永2年(1705年)、吉利に初入部する。正徳5年(1715年)、一番組頭,番頭となる。享保7年(1722年)、5代藩主・島津継豊と共に江戸に出府し、継豊の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。 |
享保3年(1718年)、4代藩主・島津吉貴の清純邸御成の際に御目見する。享保9年(1724年)、父の死去により家督を相続する。享保16年(1731年)、四番組頭,番頭役となる。享保18年(1733年)、5代藩主・島津継豊の帰国許可の答礼使を務め、江戸に出府して江戸城で8代将軍・徳川吉宗,世子・徳川家重に拝謁する。 |
小松清香 | 小松清宗 |
吉利郷私領主の小松家当主で、禰寝(根占)の名字を改め小松氏を称した最初の人物であり、中世禰寝氏の顕彰にも努めた。 |
島津久春の3男として生まれる。母は田中新助国兵の娘。3男のため、本来は三崎氏を称するはずであったが、長兄の久丘に嗣子がなかったので、その養子となり、兄の死去により、その家督を相続して島津大蔵久通と称した。しかし、宝暦4年(1754年)12月13日に今和泉島津家の当主・島津忠郷が死去したため、異母兄の小松清香の養嗣子となっていた安之助が今和泉家を相続することになり、宝暦6年(1756年)2月21日に安之助は小松家を出た(のち、安之助は島津忠温に改名)。 |
小松清穆 | 小松清猷 |
出自は島津久明を祖とする一所持格の島津準次男家。島津久儔の次男として誕生。母は町田監物久甫の長女。幼名は松之助。寛政11年(1799年)10月に、一所持小松家の当主で親族の小松清宗の養子となる。清宗は、血統上は祖父の従兄弟であるが、実家においては養玄祖父であり、小松家においては養父という、複雑な関係であった。なお、小松家に入る前は準次男家島津氏の規定により三崎氏を称する。
|
天保7年(1836年)、10代藩主・島津斉興に初お目見えし、藩主の加冠により元服。天保11年(1840年)7月19日、父・清穆の隠居により家督を相続した。天保15年(1844年)1月に詰衆になる。同年11月3日、稲荷神社祭式に付き、流鏑馬を勤める。嘉永元年(1848年)12月、藩主・斉興の命で京都に行く。嘉永2年(1849年)12月、當番頭,奉者番に就任。嘉永4年(1851年)5月8日、江戸幕府より鶴を拝領、かつ斉興の子・島津斉彬の家督につき帰国の御礼使を務める。嘉永5年(1852年)、鹿児島城下に帰ると6番御小姓組番頭になる。ひき続き當番頭,奉者番も兼任。 嘉永6年(1853年)には清水郷地頭に就任。同年に1番小姓組番頭に就任し、同年12月には御軍役惣物頭取も兼任した。また、御近習通御軍役方相図の太鼓役兼職した。 |
小松清廉 | 小松 近 |
維新の十傑の1人。旧名は肝付兼戈。通称は尚五郎のちに帯刀。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された。 |
千賀ともいう。小松清穆の4女として誕生。母は島津久逵の長女。 |