<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

TB01:(不明)橘 諸兄

 大橋定綱

TB41:大橋定綱


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大橋定綱 黒田直綱

 『寛政重修諸家譜』によれば、久留里藩主となる黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱に始まり、定綱の子・広綱のとき、黒田氏に改めたという。『寛政家譜』では黒田氏を橘氏に分類しているが、正確な出自は不明である。
 広綱の子・久綱は熊谷氏の女婿であったために三河と縁ができ、駿河今川氏に属したという。広綱の孫の光綱のとき徳川家康に属して、三河八名郡黒田郷に住んだとされる(広綱の代に黒田氏を名乗っているため、三河黒田郷は名字の地ではない)。『寛政家譜』によれば、光綱は家康の奥方の番だったという。光綱の女が家康女房となっている。

 三河国八名郡黒田郷に住した。徳川家康に仕え、慶長19年(1614年)に小姓となり、大坂の陣両陣を戦う。元和元年(1615年)11月15日、伊豆国田方郡,相模国鎌倉郡・足柄下郡を加増され、もとからの三河国内1,000石と合わせて4,000石を領し、元和元年(1615年)7月従五位下信濃守となった。元和3年(1617年)に久能山東照宮の手水桶を奉納している。しかし、寛永元年(1624年)4月19日わずか寛永元年に25歳で没し、養子の用綱(紀州藩士・近藤用勝の6男)が家督を継いだ。墓所は江戸浅草の新光明寺にある。

黒田直邦

黒田直養

 久留里藩黒田家初代。寛文6年(1666年)12月27日、旗本・中山直張の3男に生まれる。館林藩家老の外祖父・黒田用綱の養子となり、徳川徳松の側近として仕えた。
 延宝8年(1680年)、徳松の江戸城西の丸入りに伴って幕臣となる。月俸30口を与えられた。天和元年(1681年)3月21日、蔵米300俵取りに改められる。徳松の早世に伴って一時小普請となるものの、その後は小納戸役や小姓を登用されて、蔵米も増やされていく。貞享4年(1687年)12月18日、従五位下・豊前守に叙任される。
 徳川綱吉に寵愛されて元禄9年(1696年)には7000石に加増され、元禄13年(1700年)1万石を領して大名に列する。元禄16年(1703年)1月9日、5000石を加増されて、常陸下館を居所とする。宝永6年(1709年)2月21日、綱吉の死去に伴い小姓を解任される。同時に江戸城の雁の間詰めとなり、黒田家の家格となる。
 正徳2年(1712年)3月1日、初めてお国入りをする許可を得る。なお、翌年の2度目のお国入りに際しては『暇之記』という記録を残している。享保8年(1723年)3月25日、奏者番に就任し、寺社奉行を兼任する。享保17年(1732年)3月、5000石を加増されて、下館から沼田に移封された。
 同年7月29日、西の丸老中に就任し、武蔵国内で5000石を加増された。3万石を領することになった。同年12月15日、侍従に任官する。
 「学を好み、欲のない人となりの良い人】というように、名君として賞賛された。荻生徂徠の弟子であり、為政者としての心構えを説いた『老話』,『治教略論』を著わすなど、著作も多い。享保20年(1735年)3月26日、江戸で死去し、跡を養嗣子の直純が継いだ。

 上総久留里藩の第9代(最後)の藩主。嘉永2年(1849年)4月8日、第5代藩主・直方の7男・直古の妾腹の長男として江戸下谷邸で生まれ、文久2年(1862年)閏8月25日、第8代藩主・直和の養子となる。
 慶応元年(1865年)5月1日、将軍・徳川家茂に御目見をする。同年12月25日、従五位下・筑後守に叙位任官する。慶応2年(1866年)4月2日、直和が病気を理由に隠居したため、家督を継いだ。慶応4年(1868年)2月、第15代将軍・徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎したとき、榊原政敬と共にその警護を務めた。閏4月には新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により久留里藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となる。
 明治10年(1877年)6月2日、隠居し、子がなかったため、義妹の鏻子(養父・直和の次女)に家督を譲る。後に鏻子は宗義和の6男・和志を夫に迎えて、黒田家を継承させている。明治11年(1878年)6月10日に別家した。隠居および別家は債務問題のためであった。晩年は久留里で余生を送った。大正8年(1919年)11月29日に死去、享年71。