<神皇系氏族>地祇系

SY02:諏訪有信  諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 片倉景継 SY10:片倉景継

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片倉景綱 片倉重長

 現在の成島八幡神社とされる八幡宮の神職・片倉景重の次男として生まれる。生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は伊達政宗の乳母の喜多がいる。
 景綱が幼いとき、両親が相次いでなくなってしまう。姉の喜多とは20歳ほど年が離れていたため、母のような存在で、景綱は喜多に養育されていたが、まもなく、親戚の藤田家に養子として預けられた。だが、その藤田家に男子が産まれたため、景綱は喜多のもとにもどることとなり、再びともに暮らした。姉の喜多は文武両道に通じ、兵書を好み、講じたという。弟の景綱も喜多の教化を強く受け育った。
 永禄10年(1567年)、主君の伊達輝宗に嫡子の政宗が産まれると、喜多は政宗の乳母を拝命した。天正年間初め頃、伊達家の城下米沢で大火あり、そのときの景綱の活躍が認められ、輝宗の徒小姓として仕えることとなる。その後、遠藤基信の推挙によって天正3年(1575年)に政宗の近侍となり、のち重臣として重用されるようになる。
 天正10年(1582年)、伊達輝宗が相馬氏を攻めた際に、政宗が蘆名盛隆から援軍を取り付ける交渉をして成功しているが、盛隆からは景綱が政宗の腹心として認識されており、盛隆から景綱に充てた書状「片倉代々記」所収某年(推定天正11年)9月11日付片倉景綱宛蘆名盛隆書状には今後の政宗への取次を期待されている。
 天正13年(1585年)の人取橋の戦いや天正16年(1588年)の郡山合戦、天正17年(1589年)の摺上原の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄2年(1593年)の文禄・慶長の役、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争の大半に参加して、伊達氏の危難を救っている。小田原征伐に際しては豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、伊達政宗に小田原参陣を決意させた。
 景綱は伊達氏の対外交渉における取次を担当し、伊達政宗の発給した外交文書の多くには景綱の副状が添えられている。
 関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万3000石の城主を賜るも病のため、亘理領内の神宮寺村で療養し、慶長10年(1605年)の春に白石へ移った。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病床に臥していたため、政宗に従うことができず、嫡子の重綱(のち重長)を参陣させた。元和元年(1615年)、病のために死去。享年59。 

 天正12年(1584年)12月25日、出羽国置賜郡下長井荘宮村片倉館において片倉景綱の子として生まれる。天正19年(1591年)、伊達成実を烏帽子親として元服した(この時の名乗りは重綱)。同年、重長は主君・政宗や父・景綱とともに京都伏見に登り、慶長4年(1599年)まで滞留し、その間に豊臣秀吉から御羽織を賜った。
 慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの白石城の戦いでは、亘理城の留守居役を命ぜられていたが、父とともに従軍し初陣を飾る。慶長6年(1601年)9月、主君・政宗の京都伏見御登の御供として、父とともに同行、慶長7年(1602年)1月の豊臣秀頼や同年7月の小早川秀秋にそれぞれ拝謁し、慶長8年(1603年)に主君・政宗とともに帰城した。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病中にあった父に代わって政宗に従い参陣し、敵将の後藤基次を討ち取るなどの功績を立て大いに名声を上げた。父からは、一軍を預かる将として刃を交えることなどあるまじき行為として叱咤をうけたが、世間からは父に劣らぬ智勇兼備の名将として「鬼の小十郎」と称された。
 元和元年(1615年)10月14日、父の景綱が死去すると家督を継ぐ。重長の正室は江戸に人質として滞在しており、寛永3年(1626年)7月に江戸屋敷にて死去した。大坂の陣時の乱妨取りされ、侍女となっていた阿梅は、真田信繁の3女であることが判明して側室となっていたが、これを継室とした。
 寛永13年(1636年)4月、主君・政宗が参勤交代により江戸に向かう途中、白石城に一泊し、養嗣子の景長とともに拝謁する。これが政宗との今生の別れとなったのであるが、この時、政宗は「国の久しいことを心がけ、よく取りはからってほしい」と重長に後事を託したという。
 慶安4年(1651年)12月28日(1652年1月)、主君・伊達忠宗より仙台藩の家格中の「一家」の座を賜る。万治2年(1659年)3月25日に死去、享年76。。死後、養子となった外孫の景長が家督を継いだ。