<神皇系氏族>地祇系

SY02:諏訪有信  諏訪有員 ― 諏訪有信 ― 座光寺光清 SY09:座光寺光清

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座光寺為清 座光寺為時

 座光寺氏の出自は、『寛政重修諸家譜』によると、鎮西八郎為朝の子・大嶋二郎為家が伊豆国大島を去り、信濃国伊那郡下条に住し、のち同郡座光寺村に移り座光寺氏を称した。 また、諏訪氏の族であるとも、清和源氏片桐氏族であるとも言われる(本系図は諏訪氏説)。
 座光寺為清は天正3年(1575年)11月21日に武田方の武将・秋山虎繁と共に美濃岩村城に籠城して織田方と戦ったが、降伏赦免の参礼に城を出たところ秋山虎繁,大嶋杢之助と共に捕縛されて、逆さ磔の極刑に処せられた。

 天文20年(1551年)、座光寺為清の子として誕生。当初は武田信玄の伊那郡進出に従っていたが、織田氏の甲州征伐により甲斐武田氏が滅亡すると、徳川家康に仕える。天正12年(1584年)、松岡城主・松岡貞利が豊臣氏に通じたことを菅沼定利に報告した。その功績により、天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川氏が関東に移されると上野国碓氷郡大竹に950余石を賜り、さらに30余石を加増される。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には徳川秀忠に従って第二次上田合戦に参加し、奮戦したことが評価されて合戦後の慶長6年(1601年)、旧領の伊那郡山吹に1000石で復帰し、山吹陣屋を築く。のちに410余石加増されている。元和元年(1615年)、大坂夏の陣では松平乗寿軍に属し、枚方に帯陣した。
 寛永20年(1643年)、死去。享年93。