KDR2:百済王朝2 | 百済王朝2 ― 白猪膽津 | SI01:白猪膽津 | ● |
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白猪胆津 | 白猪宝然 |
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百済系渡来人で白猪氏の祖。白猪氏は新しい統治文筆技術を持つ新来の渡来氏族であった。本拠地は河内国志紀郡長野郷(現在の大阪府藤井寺市付近)とされる。 |
飛鳥時代の官吏。姓は史、のち宿禰。名は「骨」とも表記する。冠位は務大壱。 |
葛井大成 | 葛井道依 |
元正朝の養老4年(720年)、一族とともに白猪史から葛井連に改姓する。 |
天平神護元年(764年)藤原仲麻呂の乱における功労により外従五位下に叙せられる。天平神護2年(766年)内位の従五位下次いで従五位上、神護景雲3年(769年)正五位下と称徳朝において急速に昇進を果たす。なおこの間、勅旨省の官人(勅旨少丞・少輔)を務めたほか、天平神護3年(767年)道鏡のために法王宮職が設置されると大進を兼ねた。神護景雲4年(770年)称徳天皇の葬儀において御装束司を務めた。天応元年(781年)の光仁上皇の葬儀でも御装束司を務めた。 |
葛井広成 | 葛井根主 |
元正朝の養老3年(719年)遣新羅使に任ぜられて、新羅へ赴く。翌養老4年(720年)一族と共に白猪史から葛井連に改姓する。 |
淳仁朝の天平宝字5年(761年)外従五位下に叙せられる。天平宝字8年(764年)正月に備中介に任ぜられるが、藤原仲麻呂の乱後の10月に阿波守に転じる。 |
菅野豊持 | 菅野宗之 |
氏姓は葛井宿禰のち蕃良朝臣,菅野朝臣。大膳亮・葛井根主の玄孫で、兵部少録・蕃良鮎川の孫とする系図がある。官位は従五位下・河内守。承和元年(834年)、一族の陰陽允・葛井石雄と兵部少録・葛井鮎川が葛井宿禰姓から蕃良朝臣姓に改姓しており、豊持も同じく改姓したと想定される。承和9年(842年)右大史の官職にあったが、渤海使・賀福延を慰労するために鴻臚館へ派遣されている。仁明朝末の嘉祥2年(849年)外従五位下・大炊頭に叙任された。 |
貞観4年(862年)釈奠において、直講として『春秋左氏伝』を講じる。のち、従六位下・左少史に叙任され、貞観5年(863年)兵部少録・葛井居都成ら一族3人とともに河内国丹比郡から右京職に本拠を移貫した。右大史に昇任された後、貞観6年(864年)居都成ら一族とともに葛井連から菅野朝臣に改姓している。 |
葛井諸会 | 葛井立足 |
元明朝の和銅4年(711年)対策を受験し、この時の策問に対する対策文が『経国集』に採られている。 |
聖武朝の天平10年(738年)参河目を務めていた記録がある。 |
葛井根道 | 葛井河守 |
孝謙朝から淳仁朝にかけて造東大寺主典・判官を務める。天平宝字7年(763年)礼部少輔・中臣伊加麻呂とその子息の真助と3人で飲酒し、忌諱すべき内容(孝謙上皇と道鏡との関係か)に話が及んだとして通報され、伊加麻呂は大隅守に左遷され、真助は土佐国、根道は隠岐国へそれぞれ流罪となった。 |
称徳朝初頭の天平神護元年(765年)正月に正七位上から五階昇進して外従五位下に叙せられ、2月に右衛士少尉に任ぜられる。天平神護3年(767年)伊賀守に遷ると、神護景雲3年(769年)遠江介と称徳朝後半は地方官を務めた。 |