<神皇系氏族>天孫系

A109:天曽利命  天曽利命 ― 坂合部阿良古 SC01:坂合部阿良古

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坂合部阿良古 坂合部 贄

 「左京神別」にある「坂合部宿禰氏」は「火明命八世孫邇倍足尼之後也」とあり、「右京神別」の「坂合部宿禰氏」は「火闌降命八世孫邇倍足尼之後也」とある。「和泉国神別」にも「火闌降命七世孫夜麻等古命之後也」とある。この火明命と火闌降命は兄弟神である。歴史上で活躍した坂合部氏としては、「左京神別」に連なる坂合部宿禰氏(元坂合部連氏)が有名である。坂合部氏は、境界の画定に当たった部と、その伴造とする説が有力である。
 このほかにも『新撰姓氏録』「摂津国皇別」によると、坂合部氏は阿倍朝臣と同じく「大彦命之後也」とあり、「允恭天皇御世。造立国境之標。因賜姓坂合部連」という氏族名の由来があげられている。まt、蘇我氏の親族で、蘇我馬子の弟にあたる境部摩理勢や、同族の境部雄摩侶のような蘇我氏系列のものも存在した。こちらの姓は臣である。さらには、『古事記』によると、綏靖天皇の兄である神八井耳命の後裔で、意富氏・小子部氏の縁戚とする「坂合部連氏」、漢人系とする「坂合部首氏」が存在する。坂合部一族は、畿内と播磨国・美作国・越前国に分布が見られる。 

 贄連とも。『古事記』には登場せず、『日本書紀』巻第十四にのみ名前があげられている。
 安康天皇3年(推定456年)、眉輪王によって天皇が暗殺された際に、弟の大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)は兄たちを共犯者として疑い、八釣白彦皇子を斬り殺し、さらに坂合黒彦皇子をも訊問して殺そうとした。坂合黒彦皇子は隙をみて、眉輪王とともに大臣葛城円の家へ逃げ込んだ。結果として、3人は家ごと火をつけられて燃え広がる炎の中で死んでしまうが、その際に、坂合部連贄宿禰は皇子の亡骸を抱いてともに殺されたという。後で、舎人たちが焼け跡から彼らの遺骨を収拾したが、皇子の骨と贄の骨を選別することが難しかったため、1つの棺にいれて、新漢の𣝅本の南の丘に合葬した、という。
 この坂合部贄という人物は、黒彦皇子の名代・子代の民であり、皇子の壬生部の管理者ではなかったか、と言われている。『新撰姓氏録』「左京神別」・「右京神別」にある「邇倍足尼」を贄宿禰ではないかとする説もある。 

坂合部磐鍬 坂合部稲積

 斉明天皇2年(656年)8月に高句麗から調が進上されるが、9月にその返礼使として大使・膳葉積に随い副使として高句麗へ渡っている。
 斉明天皇5年(659年)7月に第四次遣唐使の大使として江南路をとって渡唐した。副使・津守吉祥の船は無事唐の洛陽に到着したが、9月15日の日没時に磐鍬の船は横からの逆風に遭い、南海の爾加委という島に漂着した。ここで、磐鍬は島の民によって殺され、残された東漢長阿利麻,坂合部稲積ら5人は島人の船を奪って脱出し、括州(現在の浙江省麗水)を経由して洛陽まで辿り着いた。
 天平宝字元年(757年)の太政官の奏上によって、石敷(磐鍬)の功田6町について遭難して死んだことは哀れむ宜き事項であるが、功績とは言いがたいため下功として子供に相続させることが定められた。 

 『日本書紀』に引用された『伊吉博徳書』にのみ現れる人名である。名前からすると、坂合部磐鍬の縁者であろうと思われる。
 斉明天皇5年(659年)7月に第四次遣唐使に加わり、大使・坂合部磐鍬の船に乗船し、難波の三津浦より出発。新羅・百済戦の影響で朝鮮半島を北上するルートが取れずに、呉唐の路(江南路)をとって渡唐した。9月11日に筑紫の大津浦(博多湾)を発ち、朝鮮半島西南端の小島で台風を避けるなど、用心を重ねている。しかし、大海(東シナ海)に出た後、9月15日の日入の時に磐鍬の船は横からの逆風に遭い、南海の島に漂着し、ここで、磐鍬らは島の民によって殺害され、残された稲積,東漢長阿利麻ら5人は難を逃れて、島人の船に盗み乗って、括州に到達した。州県の官人は彼らを洛陽まで送り届けてくれた、という。
 その後、斉明天皇6年(660年)10月16日、長い軟禁生活から解放された遣唐副使の津守吉祥・伊吉博徳らと洛陽で再会している。「阿利麻等五人に相見ることあり」とあるので、この時も生存者5名はともに行動していたものと思われる。その後は吉祥一行に加わったものと考えられるが、以後の事績は不明である。

坂合部磐積 坂合部 唐

 孝徳朝の白雉4年(653年)大使・吉士長丹,副使・吉士駒,学問僧の道昭や定恵などが派遣された第二次遣唐使に学生として参加する。
 天智天皇4年(665年)12月に守大石を大使とする第五次遣唐使に参加する。この時の遣唐使は同年9月に訪日した劉徳高らを送迎するものであったらしい。なお、先の遣唐使の留学僧の定恵が劉徳高の船に乗って日本に帰国してきており、磐積の再度の遣唐使への参加はこの縁によるものとも想像される。
 天智天皇6年(667年)、唐軍の百済の鎮将・劉仁願が派遣した熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡と共に帰国。この時の冠位は大山下。守大石は帰国しなかった。彼らは泰山で高宗が行なった封禅の儀に参列したと推測されている。
 天武天皇10年(681年)、食封として60戸を与えられ、絁30匹・綿150斤・布150端・钁100口を与えられた。翌天武天皇11年(682年)『新字』1部44巻を天皇に命じられて作成した。天武天皇13年(684年)に制定された「八色の姓」により連姓から宿禰姓に改姓している。天武天皇14年(685年)、天武天皇は臣下と博戯(双六などの賭け事)をして遊んだが、この中のメンバーに磐積がおり、宮処王・難波王・竹田王・三国友足・県犬養大伴・大伴御行・多品治・采女竹羅・中臣大島とともに、天皇から御衣袴を与えられている。 

 『続日本紀』巻第一によると、文武天皇4年(700年)、刑部親王以下19人と共に大宝律令撰定に参加し、その功績によって白猪史骨,土師宿禰甥と共に禄を与えられたが、この時の位階は勤大肆(従六位下に相当)である。『続紀』巻第三の記述によると、慶雲元年(704年)以前に没したことが分かる。同年7月に従五位上から正五位下を贈与されているのが、その根拠である。 
坂合部大分

 文武天皇5年(701年)1月に粟田真人を遣唐執節使、高橋笠間を遣唐大使とする第八次遣唐使の副使に任命される。4月に使節一行は文武天皇に拝謁するも、その後、風浪が激しく渡海することができず、翌大宝2年(702年)6月になってやっと出航した。なおこの時、大使の高橋笠間は同行せず、同年8月に造大安寺長官に転じており、代わって大分が大使を務めている。この時の遣唐使派遣の目的としては、唐の文物の摂取以外に、「日本」の国号と律令制度による国家体制の整備状況を唐の皇帝に報告する目的があったものと推定されている。
 執節使・粟田真人は慶雲元年(704年)に帰国するが、大分はその後も長く唐に滞在した。養老2年(718年)12月に第九次遣唐使にて大使・多治比縣守らに随って帰国した。翌養老3年(719年)1月に大分は渡唐の功労により従五位上から正五位下に昇叙されている。