| A109:天曽利命 | 天曽利命 ― 坂合部阿良古 | SC01:坂合部阿良古 | ● |

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| 坂合部阿良古 | 坂合部 贄 |
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「左京神別」にある「坂合部宿禰氏」は「火明命八世孫邇倍足尼之後也」とあり、「右京神別」の「坂合部宿禰氏」は「火闌降命八世孫邇倍足尼之後也」とある。「和泉国神別」にも「火闌降命七世孫夜麻等古命之後也」とある。この火明命と火闌降命は兄弟神である。歴史上で活躍した坂合部氏としては、「左京神別」に連なる坂合部宿禰氏(元坂合部連氏)が有名である。坂合部氏は、境界の画定に当たった部と、その伴造とする説が有力である。 |
贄連とも。『古事記』には登場せず、『日本書紀』巻第十四にのみ名前があげられている。 |
| 坂合部磐鍬 | 坂合部稲積 |
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斉明天皇2年(656年)8月に高句麗から調が進上されるが、9月にその返礼使として大使・膳葉積に随い副使として高句麗へ渡っている。 |
『日本書紀』に引用された『伊吉博徳書』にのみ現れる人名である。名前からすると、坂合部磐鍬の縁者であろうと思われる。 |
| 坂合部磐積 | 坂合部 唐 |
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孝徳朝の白雉4年(653年)大使・吉士長丹,副使・吉士駒,学問僧の道昭や定恵などが派遣された第二次遣唐使に学生として参加する。 |
『続日本紀』巻第一によると、文武天皇4年(700年)、刑部親王以下19人と共に大宝律令撰定に参加し、その功績によって白猪史骨,土師宿禰甥と共に禄を与えられたが、この時の位階は勤大肆(従六位下に相当)である。『続紀』巻第三の記述によると、慶雲元年(704年)以前に没したことが分かる。同年7月に従五位上から正五位下を贈与されているのが、その根拠である。 |
| 坂合部大分 | |
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文武天皇5年(701年)1月に粟田真人を遣唐執節使、高橋笠間を遣唐大使とする第八次遣唐使の副使に任命される。4月に使節一行は文武天皇に拝謁するも、その後、風浪が激しく渡海することができず、翌大宝2年(702年)6月になってやっと出航した。なおこの時、大使の高橋笠間は同行せず、同年8月に造大安寺長官に転じており、代わって大分が大使を務めている。この時の遣唐使派遣の目的としては、唐の文物の摂取以外に、「日本」の国号と律令制度による国家体制の整備状況を唐の皇帝に報告する目的があったものと推定されている。 |