百済系渡来氏族

OU10:右田盛長  多々良正恒 ― 右田盛長 ― 陶 弘賢 OU11:陶 弘賢


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陶 弘房 陶 弘護

 大内氏の一族であり、周防守護代職を務めた陶盛政の次男として生まれる。 長禄1年(1457年)同族の右田弘篤が出征中に死去し子がなかったため、大内教弘の命令によりその跡を継ぎ右田中務五郎と称した。
 寛正6年(1465年)8月26日に兄の弘正が21歳で討死したため、11月1日大内政弘の許しをもらい陶家に戻って家督を相続、陶中務少輔と名乗った。また後に越前守と名乗る。
 応仁2年(1468年)に、大内政弘に従い上京するが、同年、応仁の乱の最大の激戦となった京都相国寺の戦いで討死した。家督は嫡男の弘護が継いだ。
 弘房没後の延徳4年(1492年)、妻(法名;華谷妙栄)が夫の菩提を弔うため、実家の周防国吉敷郡仁保荘小高野に安養寺を建立した。安養寺は明応元年(同1492年)に弘房の持仏である薬師如来の仏像を本尊として保寧山瑠璃光寺と名前を変え、後に現在地に移転している。 

 康正元年(1455年)に周防国山口の私邸で生まれる。父が応仁の乱で応仁2年(1468年)に戦死し、13歳で陶氏当主を継いだ。翌年元服して、当主大内政弘から一字を受けて「弘護」と名乗る。
 文明2年(1470年)に正式に周防守護代に任じられる。同年、政弘が西軍方として京都に滞陣中、政弘の叔父・教幸(道頓)が東軍方の誘いに応じて内藤武盛,吉見信頼らと共に留守中の周防で反乱を起こした(大内道頓の乱)。留守居役の弘護は当初は教幸を迎え入れる態度を示していたが、同年12月になって一転して教幸を攻め、周防玖珂郡で教幸を撃ち破り、さらに吉見信頼を頼って再起を図る教幸を長門阿武郡の各地(渡川城,賀年城,元山城,江良城など)でも吉見勢を破っている。そして、政弘の命で急遽帰国した益田貞兼と共に長門豊浦郡でも教幸方を討って追撃を続け、翌3年(1471年)には教幸を没落に追い込んだ。これは、当初から教幸を油断させて時間を稼ぐための罠であったとみられている。
 反乱を鎮圧した後には、大宰府に入って少弐頼忠を攻めた。文明10年(1478年)には筑前守護代も務めるなど、弘護の大内家での地位は揺るぎないものとも思われたが、一方で京都から帰国した主君・政弘は弘護の領内における権勢の強さに不安を抱くようになり、その権力の抑制に乗り出した。文明14年(1482年)、帰国した政弘が諸将の慰労のために開いた山口の築山館(大内館の別館)で開いた宴席の席上で、弘護は長年敵対関係にあった吉見信頼に刺されて死亡。享年28。なお、信頼はその場で内藤弘矩に討ち果たされている。以後、この弘矩が大内家で重きをなすことになる。
 陶氏の家督は、まだ幼い陶武護が継ぐ。

陶 武護 陶 興明

 父が文明14年(1482年)5月27日に吉見信頼に殺害されたため(大内山口事件)、家督を継いだが、幼年のために叔父の陶弘詮(右田弘詮)の後見を受けた。1488年に「陶中務少輔」、1490年に「中務少輔武護」として発給した書状が残っている。
 その後、六角征伐に従軍する大内義興に従軍して京都に駐屯していた延徳4年(1492年)に突如、出奔して摂津国の天王寺にて出家し「宗景」を名乗る。そのため、陶氏の家督は弟の興明が継承したが、明応4年(1495年)になって宗景と号していた武護が突然帰国して、2月13日に興明を討ち取って家督を奪った。興明の殺害には内藤弘矩の同意があったとされるが、政弘の承認を得た大内義興が明応4年2月23日付で安芸国人阿曽沼氏に安芸国能美島周辺での武護捜索を命じて、武護は高野山に赴き、最期は姫山(現・山口市)で討死した。
 明応4年2月28日にはその内藤弘矩とその子・内藤弘和が「中務少輔武護為」に誅殺された。ところが、内藤弘矩父子の死について、弘矩を讒言したとされる陶武護に与同を企てたため、先代当主の大内政弘によって殺害されたとする逆の説も伝えられている。また、武護による陶氏当主・興明殺害自体が大内氏に対する反逆とも解され、その15日後に内藤弘矩が殺害されるなど、時系列的に不可解な点が見受けられる。実際に大内義興は明応4年6月19日付で東福寺に充てた書状にて「陶中務入道宗景(武護)不儀を企て候の間、成敗を加え候につき、尊書拝見つかまつる」と記しており、この時までに義興によって武護が討たれていた可能性が高い。陶氏の家督は弟の陶興房が継いだ。

 文明9年(1477年)、陶弘護の次男として生まれた。興明が6歳の頃、文明14年(1482年)5月に父・弘護が山口の築山館で石見国人・吉見信頼に殺害される。父の跡は兄の武護が継いだ。兄・武護は延徳2年(1490年)10月に陶氏の本拠地である周防国都濃郡富田保の神社へ所領を宛行うなど、当主として活動していた。しかし、その2年後の延徳4年(1492年)7月、武護は摂津国天王寺において出家遁世してしまう。これにより、興明が家督を相続することとなった。
 興明が新当主として活動していたことは、当時の史料で確認できる。1493年に興明名義で発給した文書である石見国人・益田氏との音信をはじめ、周防国都濃郡末武保の日面寺の寺領安堵、周防国都濃郡富田保別所にあった満願寺の住持職と寺領の安堵など、興明の発給文書が残されている。
 ところが、明応4年(1495年)2月13日、周防国富田の居館において、興明は兄・武護(当時は宗景と名乗る)によって討ち取られた。享年19。
 興明を討った武護もその後、大内義興の指示で討たれている。興明の跡は弘護3男(興明の弟)の興房が継いだ。

陶 興房 陶 興昌

 文明9年(1477年)以降、陶弘護の3男として生まれる。文明14年(1482年)、父が暗殺される(大内山口事件)。長兄・陶武護が家督を継ぐも、次兄・陶興明と対立して出奔した。武護は後に帰参して興明を殺害するも、大内義興に追討され討死、残った興房が家督を継いだ。叔父の右田弘詮が後見した。
 永正3年(1506年)には周防守護代に就いている。家督継承後、義興に従って各地を転戦する。畿内で行われた船岡山の戦いに従軍し、その功により1511年9月までに尾張守に就く。 出雲の尼子経久との戦いで軍功を重ねた。大永4年(1524年)、大内義興・義隆父子に従って安芸に出陣し、義隆の別働隊に従って安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかしこの時は武田氏の救援に来た毛利元就の攻撃を受けて敗北している。
 義興の跡を継いだ義隆時代の初期は北九州方面への勢力拡大が行なわれ、北九州を任されていた杉興運が享禄3年(1530年)8月の田手畷の戦いで少弐氏に大敗したため、天文元年(1532年)11月に大軍を率いて長門から九州に渡海し、大友義鑑,少弐資元らと対峙した。この興房率いる大内軍には杉興運や仁保隆重,秋月氏,菊池氏,九州千葉氏,原田氏など北九州の主だった将が従った。しかし少弐資元の家臣・筑紫惟門が勝尾城で強く抵抗し、大友義鑑が筑前に侵攻して星野親忠を降伏させるなど苦戦が続いた。このため天文2年(1533年)2月には義隆より興房の従兄弟である陶隆康が援軍として派遣され、援軍を得た興房は大攻勢に転じて肥前三根郡千栗村で少弐資元を破り追撃し、さらに大友方の筑前柑子岳城(福岡市西区)を落とし、大友方の本拠である豊後に侵攻した。この興房の大攻勢の結果、大内軍の優勢が確立し、天文2年(1533年)12月には筑紫惟門が降伏した。また天文3年(1534年)4月6日、豊後勢場ヶ原の戦いで大友方の吉弘氏直,寒田親将らを討って大勝し、大友家の豊後に圧力を加えた。しかし勝利に乗じて7月に肥前三津山(佐賀県神埼郡)に在陣して龍造寺家兼の佐賀城を攻めようとしたが、龍造寺軍の逆襲にあって敗北している。とはいえ興房の優位は揺るがず、10月には少弐資元を追い詰めた上で懐柔を図った。興房は龍造寺家兼に使者を送って資元の隠居と少弐冬尚への東肥前半国安堵を条件とした仲介を依頼する。大友義鑑とも和睦を図り、天文4年(1535年)に大内家優位のまま和睦が成立し、興房は山口に帰還した。
 天文5年(1536年)には義隆の命令で再度肥前に侵攻して多久城を包囲し、9月に少弐資元を自刃させ、少弐氏を一時滅亡へ追いやった。 天文5年(1536年)6月以前に養子・隆房(後の陶晴賢)に家督を継がせ隠居した。 天文8年(1539年)4月18日に死去。死の直前、隆房の性格が将来に災いするのではないかと案じていたと言われる。
 大内家臣団の中で戦功随一とされる名将だが、和歌にも優れた教養人という一面もあり、公卿の飛鳥井雅俊らとも交流があった。

 戦国時代の厳島神社神官野坂房顕の覚書には、大永5年(1525年)3月18日、父の陶興房とともに安芸国佐西郡に在陣していた「陶ノ次郎興次」が、療養のために帰国する際のことが記されている。この「次郎興次」が当時の興昌であったと推定される。父・興房は大永2年(1523年)から同国において、安芸武田氏の武田光和や厳島神主家の友田興藤らと激しい戦いを繰り広げていた。
 興昌は岩戸(現・広島県廿日市市佐方)の陣から、船で帰国の途についた。父・興房は沖まで出て見送った。他にも厳島に駐屯していた弘中武長や大内方水軍の諸将、野坂房顕らが船中に挨拶のために訪れた。父子の別離に、武長らは涙していたと房顕は覚書に記している。
 享禄2年(1529年)4月23日、興昌は死去した。享年25。山口県周南市大字下上横矢にある海印寺には興昌の供養塔が保存されている。小宝篋印塔の塔身には「春翁透初/享禄二六月十二日」とあり、興昌の法名と紀年が刻まれている。興昌の死去後四十九日の造立であったことが分かる。

陶 晴賢(隆房) 陶 弘詮

 少年時は美男として知られ、大内義隆の寵童として重用された。また、陶氏には代々の当主が本家・主君にあたる大内氏当主より一字拝領する慣わしがあり、元服時には義隆の偏諱を受けて、隆房と名乗った。天文5年(1536年)6月以前に養父・興房から家督を相続し、天文6年(1537年)には従五位下に叙位されている。天文8年(1539年)、養父・興房が死去。
 天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として主君・義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月、尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。
 天文11年(1542年)には出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)に大敗した義隆は、軍事面に無関心となり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派である隆房の影響力は失墜し、さらに武任を重用する義隆とも不仲になっていく。
 天文14年(1545年)には一時、大内家の主導権を奪還するが、天文17年(1548年)、義隆によって再び武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除される。天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結び武任の暗殺を試みるが、事前に察知されて義隆の詰問を受けたことで、事実上、大内家での立場を失った。
 天文19年(1550年)2月、大友氏で発生した二階崩れの変により、大友義鎮が大友氏の家督となる。隆房は、主君の大内義隆を追い落として義鎮の弟・大友晴英を大内氏の家督とすることを決意し、義鎮に了解をとりつけた。
 天文20年(1551年)1月、武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて「相良武任申状」にて「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と義隆に讒言。これを契機として文治派を擁護する義隆と武断派の隆房の対立は決定的なものとなる。8月10日(9月10日)には身の危険を感じた武任が周防から出奔した。8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において義隆を自害に追い込む。さらに義隆の嫡男である義尊も殺害。その後、野上房忠に命じて筑前国を攻め、武任や杉興運らも殺害した。さらに謀反が終わった後には重矩も殺害。義尊の弟で、義隆の次男である問田亀鶴丸は母方の祖父が内藤興盛だったこともあり、助命している。
 天文21年(1552年)1月に豊後国の大友館で、大友氏と大内氏の縁組の儀式が行われた。義隆の養子である大友晴英(のちの大友宗麟の異母弟)を大内氏新当主として擁立し、大内氏の実権を掌握した。この時、隆房は晴英を君主に迎えることを内外に示すため、晴英から新たに一字「晴」の字を受ける形で、晴賢と名を改めている。
 その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあり徹底した軍備強化を行う。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主も少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見国の吉見正頼と安芸国の毛利元就の反攻というかたちで現われた。
 晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴く(三本松城の戦い)。しかし主力軍が石見国に集結している隙を突かれ元就によって安芸国における大内方の城の大半が陥落してしまった(防芸引分)。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸国に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸国は毛利家の支配下となる。
 天文24年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城攻略を試みる。だが、毛利軍の奇襲攻撃により本陣を襲撃され敗北する。毛利氏に味方する村上水軍により大内水軍が敗れ退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。遺骸は桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。
 晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・長房並びに次男・貞明は自害した。以後、大内氏は急速に衰退する。弘治3年(1557年)には毛利元就によって大内氏が攻め滅ぼされた。この時、長房の長男・鶴寿丸(晴賢の末子とも)は殉死し、陶氏の嫡流は完全に途絶えた(防長経略)。

 長門国諏訪山城主。同じく長門国矢田城主とも伝えられる。陶弘房の子として誕生。主君・大内政弘から「弘」の一字を授与された。父・弘房は同族の右田弘篤の跡を継いでいたが、寛正6年(1465年)に兄の弘正が戦死したため陶家の家督を相続、代わって次男である弘詮に右田家を継がせたという。
 文明10年(1478年)7月、兄・弘護とともに九州に渡り、少弐氏と戦ってこれを滅ぼす。翌年、兄に代わって筑前国の守護代となる。ところが文明14年(1482年)、兄・弘護が不慮の死を遂げ、その子らが幼かったため、主命により陶氏に戻り兵庫頭を名乗る。
 弘護の3男・興房が成人するまで、番代(当主代行・後見人)と周防及び筑前両国の守護代職を務め、政弘の子である主君・大内義興の上洛中は留守を守って領内の政務を執り行った。系図類には「暫称陶氏」と書かれ、右田姓に復したとされているが、現存の古文書ではその事実を確認できず、陶姓を通したと考えられている。
永正14年(1517年)、子の隆康に家督を譲っている。初め中務大輔を名乗っていたが、永正15年(1518年)には従五位下安房守に任じられた。後に(鳳梧真幻)昌瑞と号し、死後の戒名となった。 大永2年(1522年)9月5日に紙本墨書吾妻鏡の書写を行った旨を記載した奥書を書いた。
 大永3年(1523年)10月24日、陶氏系図には筑前国筥﨑において病死したとあるが、近藤清石は所見が得られないとして「卒年不詳」としている。
 弘詮は文人としても知られ、宗祇や猪苗代兼載といった当時一流の文化人と親交があった。弘詮はそれら文化人から「吾妻鏡と号す」「関東記録」があり「文武諸道の亀鑑」と聞いていたが、なかなか目にすることができなかったという。しかし文亀元年(1501年)頃、その写本42帖を手に入れ、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵した。それは治承4年(1180年)から文永3年(1266年)と、現在知られる範囲ではあったが、尚その間に20数年分の欠落があった。このため弘詮は諸国を巡礼する僧徒、または往還の賓客に託して、京はもちろん畿内・東国・北陸に至るまで尋ねまわり、ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖とした。大永2年(1522年)9月5日のことである。大寧寺の変の後、難を逃れた隆康の次男・元弘は安芸の毛利元就を頼ったが、この際に弘詮の『吾妻鏡』も毛利氏に献上され、元就の次男・吉川元春の子孫に伝わることとなった。そのため、弘詮の『吾妻鏡』は今日では“吉川本”と呼ばれている。記事に3年分の欠損はあるが、現在では吾妻鏡の最善本と目されている。

陶 隆弘

 陶隆康の子として生まれ、大内義隆に仕える。天文20年(1551年)、一族の陶隆房(後の陶晴賢)ら、大内氏の武断派はついに反乱を起こし、隆房は主君・義隆を討つべく居城の富田若山城から兵を進めた。隆弘は父に従い主君・義隆を守るべく護衛についた。
 陶隆房の侵攻を知った義隆は大内氏館・築山館を出て、多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退いて防備を固めたが、法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、義隆は山口を放棄して長門国に逃亡。同年8月28日に隆康は嫡男・隆弘と共に法泉寺において殿を務め戦死した。