OU10:右田盛長 | 多々良正恒 ― 右田盛長 ― 陶 弘賢 | OU11:陶 弘賢 |
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陶 弘房 | 陶 弘護 |
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大内氏の一族であり、周防守護代職を務めた陶盛政の次男として生まれる。 長禄1年(1457年)同族の右田弘篤が出征中に死去し子がなかったため、大内教弘の命令によりその跡を継ぎ右田中務五郎と称した。 |
康正元年(1455年)に周防国山口の私邸で生まれる。父が応仁の乱で応仁2年(1468年)に戦死し、13歳で陶氏当主を継いだ。翌年元服して、当主大内政弘から一字を受けて「弘護」と名乗る。 |
陶 武護 | 陶 興明 |
父が文明14年(1482年)5月27日に吉見信頼に殺害されたため(大内山口事件)、家督を継いだが、幼年のために叔父の陶弘詮(右田弘詮)の後見を受けた。1488年に「陶中務少輔」、1490年に「中務少輔武護」として発給した書状が残っている。 |
文明9年(1477年)、陶弘護の次男として生まれた。興明が6歳の頃、文明14年(1482年)5月に父・弘護が山口の築山館で石見国人・吉見信頼に殺害される。父の跡は兄の武護が継いだ。兄・武護は延徳2年(1490年)10月に陶氏の本拠地である周防国都濃郡富田保の神社へ所領を宛行うなど、当主として活動していた。しかし、その2年後の延徳4年(1492年)7月、武護は摂津国天王寺において出家遁世してしまう。これにより、興明が家督を相続することとなった。 |
陶 興房 | 陶 興昌 |
文明9年(1477年)以降、陶弘護の3男として生まれる。文明14年(1482年)、父が暗殺される(大内山口事件)。長兄・陶武護が家督を継ぐも、次兄・陶興明と対立して出奔した。武護は後に帰参して興明を殺害するも、大内義興に追討され討死、残った興房が家督を継いだ。叔父の右田弘詮が後見した。 |
戦国時代の厳島神社神官野坂房顕の覚書には、大永5年(1525年)3月18日、父の陶興房とともに安芸国佐西郡に在陣していた「陶ノ次郎興次」が、療養のために帰国する際のことが記されている。この「次郎興次」が当時の興昌であったと推定される。父・興房は大永2年(1523年)から同国において、安芸武田氏の武田光和や厳島神主家の友田興藤らと激しい戦いを繰り広げていた。 |
陶 晴賢(隆房) | 陶 弘詮 |
少年時は美男として知られ、大内義隆の寵童として重用された。また、陶氏には代々の当主が本家・主君にあたる大内氏当主より一字拝領する慣わしがあり、元服時には義隆の偏諱を受けて、隆房と名乗った。天文5年(1536年)6月以前に養父・興房から家督を相続し、天文6年(1537年)には従五位下に叙位されている。天文8年(1539年)、養父・興房が死去。 |
長門国諏訪山城主。同じく長門国矢田城主とも伝えられる。陶弘房の子として誕生。主君・大内政弘から「弘」の一字を授与された。父・弘房は同族の右田弘篤の跡を継いでいたが、寛正6年(1465年)に兄の弘正が戦死したため陶家の家督を相続、代わって次男である弘詮に右田家を継がせたという。 |
陶 隆弘 | |
陶隆康の子として生まれ、大内義隆に仕える。天文20年(1551年)、一族の陶隆房(後の陶晴賢)ら、大内氏の武断派はついに反乱を起こし、隆房は主君・義隆を討つべく居城の富田若山城から兵を進めた。隆弘は父に従い主君・義隆を守るべく護衛についた。 |