設楽氏一族は駿河今川家に仕えていたが、今川氏真の代になった永禄4年(1561年)に、野田の菅沼氏,西郷氏らと三河徳川家に通じた。この時期は松平元康が自立した直後であり、設楽氏の拠点である東三河の国人領主達は、今川に残るか松平に降るか思案しているところ、貞通は率先して元康に従った。同年、これに怒った今川氏真は龍拈寺にて、貞通の妻ら人質を処刑した。 永禄6年(1563年)の三河一向一揆では岡崎城にあって松平勢の一翼を担った。翌永禄7年(1564年)、今川方の東三河の拠点・吉田城を下條の白井,二連木の戸田の軍勢とともに攻めた。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは酒井忠次とともに朝倉軍と戦った。元亀2年(1571年)に武田氏配下の秋山虎繁が領地に侵入した際、菅沼定盈,西郷義勝らと共に撃退した(竹広表の戦い)。元亀3年(1572年)、菅沼正貞が領地に侵入した際にも出澤砦にて滝川助義とともに撃退した。元亀4年(1573年)の武田信玄による野田城の戦いでは、継室の実家である野田菅沼氏の菅沼定盈を支援すべく、手勢を率いて野田城に籠もる。 天正2年(1574年)、本家の義弟である設楽清政(神三郎)が反松平派となり抗争。敗れた清政は出奔して北条氏直に仕えて、残された設楽の所領は貞通が相続した。 天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山陣地への奇襲部隊に加わり、500兵と50挺の鉄砲で樋田に陣を構えた。鳶ヶ巣山陣地奇襲は成功し、敗走する武田軍の退路を断った貞通は武田の敗残兵を討ったという。その後は信濃口の押さえとして一年間、三河国鳳来寺を守った。長篠の戦いの後、家康が奥平信昌に設楽郡を知行地とする約束をしたことから、領地を駿遠両国に移される。 慶長元年(1596年)12月27日、文禄・慶長の役のさなかに死去した。川路村の勝楽寺に葬られる。
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