建長2(1250)年、和安は浅間明神社の祝職となり、以後、和安の子孫が祝職を世襲するようになった。 とはいえその後も武士としての側面を有し、南北朝期には南朝方に属して戦場に出ていることが系図から知られる。すなわち、和安の曾孫にあたる和前とその子綱守は後醍醐天皇の皇子宗良親王に近侍していた。そして、和前の孫対馬守真盛は応永11(1404)年塩尻嶺の合戦で戦死している。 その後の代々は浅間社祝職に専念したようである。