<神皇系氏族>天神系

OD10:織田長益  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田長益 ― 織田尚長 OD11:織田尚長

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織田尚長 織田秀一

 慶長元年(1596年)、織田長益(有楽)の5男として摂津国味舌村にて誕生。慶長19年(1614年)7月3日、従五位下武蔵守に叙任する。同年12月、長益が豊臣家の重臣であったため、大坂冬の陣の終結に際して豊臣家から徳川家に人質に出される。慶長20年(1615年)4月、大坂城を退去した父・長益と共に徳川家康に御目見する。
 元和元年(1615年)8月12日、長益から大和式上郡,山辺郡内で1万石を分与された。始めは大泉村、次いで柳本村に陣屋を構えた。寛永3年(1626年)3月、徳川秀忠に従い上洛し、同年9月徳川家光に従い参内した。寛永13年(1636年)1月8日、江戸城の石普請を命じられる。
 寛永14年(1637年)11月3日、死去。享年42。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。 

 寛永20年(1643年)12月7日、長種の死去により家督を相続した。寛永21年(1644年)11月13日、将軍・徳川家光に御目見する。正保3年(1646年)6月2日、神田橋石普請の助役を命じられる。万治3年(1660年)4月19日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下信濃守に叙任する。寛文6年(1666年)5月13日、丹後宮津藩主・京極高国の改易にあたって、家臣を派遣し、領内の巡視にあたることを命じられる。寛文7年(1667年)、駿府加番を命じられた。延宝4年(1676年)、近江水口城在番を命じられた。貞享4年(1687年)8月3日、49歳で死去。墓所は祥雲寺。
織田信陽 織田信成
 父・秀綿の嫡男だった次兄・秀便の死去により、寛政11年(1799年)10月6日、嫡子となる。文化3年(1806年)12月18日、父の死去により家督を相続する。文化9年(1812年)11月1日、将軍・徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下大和守に叙任された。文政5年(1822年)、駿府加番を命じられる。文政7年(1824年)12月、池田定常の娘・鎮子と結婚する。文政13年(1830年)11月、柳本陣屋が全焼する。文武の奨励や門閥にとらわれない人材登用、人員整理や知行削減などの藩政改革を行なった。この藩政における功績や、織田信長以来の名族ということを評価されて、嘉永5年(1852年)12月27日に無城から城主格に昇進した。安政4年(1857年)8月25日、63歳で死去した。墓所は奈良県天理市柳本の専行院。  

 柳本において誕生する。安政3年(1856年)に父・信陽の嫡男であった三兄の信宝が死去したため、安政4年(1857年)9月13日に嫡子となる。同年12月16日、信陽の死去により家督を相続する。万延元年(1860年)10月15日、将軍・徳川家定に御目見する。同年12月16日、従五位下筑前守に叙任する。文久2年(1862年)閏8月8日、駿府加番の廃止により、秋からの加番を免除される。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけて、領内の崇神天皇陵の補修を行った。
 明治維新に際しては小藩のために主体的な行動をとれず、病気を理由に再三にわたって上洛延期を申請した。鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北やその後の情勢を見極めて、弟の信及を上洛させた。慶応4年(1868年)5月6日に隠居し、養子とした信及に家督を譲る。
 明治維新後は一時的に京都で暮らしていたようである。1874年(明治7年)6月11日、京都から東京に転居した。1876年(明治9年)、宮中侍候となる。また、1885年(明治18年)3月には宮中祗候となり、明治天皇に仕えた。同年7月、宮中祗候の廃止により免職となる。1898年(明治31年)2月27日、56歳で死去した。

織田信及

 天保14年(1843年)生まれとも、天保15年(1844年)10月8日生まれとも言われている。慶応4年(1868年)4月12日、新政府側の優位な情勢を見極めたところで、兄の12代藩主・信成の名代として上洛する。閏4月19日、信成の養子となる。5月6日、信成の隠居により家督を相続した。5月14日、従五位下大和守に叙任する。6月25日、新政府から帰藩を許可される。10月12日、崇神天皇陵,景行天皇陵の修復許可を願う。
 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により柳本藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で免官された。明治2年(1869年)12月2日、片桐貞信の娘・謙子と結婚する。明治9年(1876年)、宮中侍候となる。明治17年(1884年)7月8日、子爵となる。明治22年(1889年)8月2日、47歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。