<神皇系氏族>天神系

A232:出雲醜大臣命  出雲醜大臣命 ― 永見毛神 NM01:永見毛神

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永見貞連 永見貞英

 永見毛神が創始した日本の氏族。知立神社の神主を代々継いでいた。
 白鳳2(674)年に三河国造・知波屋見命の15世孫の永見貞連が天武天皇の命で、知立神社の神主になったことに始まると伝わる。平安時代後期の13代当主の永見貞春は保元の乱,平治の乱に参戦している。
 さらに室町時代の20代当主の永見貞俊は在原業平の子孫の在原師喬の3男で、母方の永見氏の養子になったと伝わる。
 22代当主の永見清貞は饗庭次郎と号し、現在の愛知県西尾市吉良町大字饗庭に居を構えた。三河守護の吉良家の重臣の大河内氏の大河内貞重の娘を妻に迎えた。応永15年(1408年)、4代将軍・足利義持から神主領などを安堵する朱印状が送られている。
 25代当主の永見貞守の弟・永見為房と、為房の子・永見貞吉は共に三河の豪族・・水野氏に仕え、為房は家計郷城主・足助氏を討ち取ったりと、多くの功を挙げている。子の貞吉は高津波(現在の愛知県刈谷市)の搦手を守っていた。
 天文16年(1547年)、今川義元の家臣・戸田宣光によって、知立神社の社殿などを焼失された。28代当主・永見守重は天文18年(1549年)に水野氏との関係を深めるために、水野氏の菩提寺である楞厳寺に田畑を寄進した。また田原城主・毛受照時の娘を室とするなど周辺の豪族と関わりを深めた。 

 29代当主・永見貞英は水野忠政の娘を室に迎え、さらに貞英の妹2人の内一人を水野信近に、もう一人を重原城主・山岡河内守に嫁がせた。また、貞英の弟・永見貞近を徳川家康の祖父の松平清康に仕えさせていた。天文23年(1554年)正月に、今川・松平軍によって、重原城を落とされた。この際、城内にいた永見氏の娘(城主に嫁いだ貞英の妹?)が自害している。重原城主の山岡氏は信仰心が篤く、焼失した知立神社を重原に勧請したり、多宝塔を再建したという。
 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、逃亡する今川軍を追う織田軍によって永見氏の居城・知立城は落城した。 

於古茶 永見貞愛

 天文17年(1548年)、三河国知鯉鮒明神の社人・永見貞英の娘として誕生する。名は、万,於古茶,松,菊子,於故満と伝わる。『随庵見聞録』に収録されている本多重次書状写に「おこちゃ」と見えるので、当時本多重次には「おこちゃ」と呼ばれていたとされる。また、『知立市史』では万の母を水野忠政の娘で、於大の方の外姪とする。
 はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされるが、家康が永見氏を臣従させたときに長勝院を仕えさせることを約束させ、元亀3年(1572年)に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされる。この時、双子であったといわれ、俗に永見貞愛がもう一人にあたるという。知立神社には、長勝院が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている。
 築山殿は長勝院が家康の子供を妊娠することについて、承認しなかったため長勝院は浜松城内から退去させられたとされる。それは正妻としての権限であった。正妻は、別妻や妾として承知するどうかの権限を持っていたと考えられる。築山殿は長勝院を家康の妾とすることを承知しておらず、にもかかわらず妊娠したために、女房衆から追放したのである。それが江戸時代になると、妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。秀康を妊娠した長勝院は重臣の本多重次の差配により宇布見村の中村家で出産にいたっている。城内から追放されたということは、生まれてくる子供を家康の子供として承認しないことを意味していた。
 天正12年(1584年)、11歳になった息子の於義丸が豊臣秀吉の養子となり、のちに元服し秀康と改名した。秀康は結城晴朝の養女・江戸鶴子と結婚し、婿養子として結城氏を継いだ。関ヶ原の戦い後は秀康が北庄城の城主となったため、長勝院もこれに同行する。慶長12年(1607年)に秀康が北庄にて急死すると、家康の許可なしに出家するが、咎めはなかった。
 元和5年(1619年)12月6日、北庄において死去した。72歳。孝顕寺に葬られた。永平寺に分骨。

 徳川家康の次男・結城秀康の双子の兄弟とされる。当時は「犬畜生と同じ双子腹」が忌み嫌われていたため家康から実子として認められず、彼は夭折したことにして、母(長勝院)の実家である永見家に預けられ、そこで育てられた。永見氏として育った貞愛は、知立神社の神職を伯父の永見貞親から譲り受けたが、慶長9年(1604年)11月16日に死去。享年31。晩年には足が不自由になっていたと伝わる。3年後には兄の秀康も亡くなった。妻は永見貞親の娘。子に永見貞安がいる。