| A232:出雲醜大臣命 | 出雲醜大臣命 ― 永見毛神 | NM01:永見毛神 | ● |

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| 永見貞連 | 永見貞英 |
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永見毛神が創始した日本の氏族。知立神社の神主を代々継いでいた。 |
29代当主・永見貞英は水野忠政の娘を室に迎え、さらに貞英の妹2人の内一人を水野信近に、もう一人を重原城主・山岡河内守に嫁がせた。また、貞英の弟・永見貞近を徳川家康の祖父の松平清康に仕えさせていた。天文23年(1554年)正月に、今川・松平軍によって、重原城を落とされた。この際、城内にいた永見氏の娘(城主に嫁いだ貞英の妹?)が自害している。重原城主の山岡氏は信仰心が篤く、焼失した知立神社を重原に勧請したり、多宝塔を再建したという。 |
| 於古茶 | 永見貞愛 |
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天文17年(1548年)、三河国知鯉鮒明神の社人・永見貞英の娘として誕生する。名は、万,於古茶,松,菊子,於故満と伝わる。『随庵見聞録』に収録されている本多重次書状写に「おこちゃ」と見えるので、当時本多重次には「おこちゃ」と呼ばれていたとされる。また、『知立市史』では万の母を水野忠政の娘で、於大の方の外姪とする。 |
徳川家康の次男・結城秀康の双子の兄弟とされる。当時は「犬畜生と同じ双子腹」が忌み嫌われていたため家康から実子として認められず、彼は夭折したことにして、母(長勝院)の実家である永見家に預けられ、そこで育てられた。永見氏として育った貞愛は、知立神社の神職を伯父の永見貞親から譲り受けたが、慶長9年(1604年)11月16日に死去。享年31。晩年には足が不自由になっていたと伝わる。3年後には兄の秀康も亡くなった。妻は永見貞親の娘。子に永見貞安がいる。 |