<神皇系氏族>天神系

 磯城黒速 ― 十市磐古 ― 中原有象 ― ? ― 長野成行 NK14:長野成行


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長野成行 長野定宗
 長野中原家とも呼ばれる。物部姓十市氏流中原氏一門の長野成行を祖とする。成行の11世孫の貞宗の代で嗣子がなく、断絶した。   藤原秀郷の庶長子の知時(千時入道)の後裔の定宗が長野中原家の最後の当主・長野貞宗の婿養子となり、その名跡を継いだため、藤姓長野氏とも呼ばれる。定宗の子の秀定は多賀氏と称して「多賀秀定」と名乗ったために、藤姓長野氏の当主は定宗一代限りであったという。 
多賀高忠 多賀貞能

 主君の京極持清は従兄でもあり、その片腕として活躍した。寛正3年10月5日(1462年10月27日)に京都侍所所司代を任ぜられ、寛正の土一揆鎮圧と治安維持で名を挙げた。しかし、文正元年(1466年)12月、持清が延暦寺と衝突して失脚すると、共に解任された。翌年に応仁の乱が勃発すると、持清と共に1万の兵を率いて細川勝元ら東軍に属し、西軍の六角高頼らを圧倒して山城に如意岳城を築いた。文明元年(1469年)には六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して、8代将軍・足利義政から直々に感状を授けられた。
 翌年に持清が病死したため持清の子の政経を庇護擁立し、西軍側の京極高清,京極政光,六角高頼,多賀清直・宗直父子らの勢力に対し一時は優勢を保つも、文明4年(1472年)に敗走し、政経と共に越前国へ逃れた。文明7年(1475年)に京極氏所領の出雲国の国人を擁して再起し、六角高頼らと戦って勝利を収めたが、西軍の土岐成頼と斎藤妙椿,斯波義廉が六角の援軍に付いたことにより劣勢となり敗退した。
 文明9年(1477年)に応仁の乱が終結したが、その後も本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷には復帰できず、京都での隠棲生活を余儀なくされていた。文明17年4月15日(1485年5月28日)、室町幕府に召されて2度目の京都侍所所司代を任ぜられると、幕命を受けて山城国内の土一揆を鎮圧し、京都市中の再建にも尽力していたが、翌年に死去した。享年62。京極氏の内紛に巻き込まれて自害したと伝えられている。墓所は京都市下京区堺町の宗仙寺にある。子孫は室町幕府に仕え、近江高島郡に拠点を移した。
 高忠は武家故実に明るく、小笠原持長に弓術を学び『高忠聞書』を著した。『高忠聞書』は弓術における研究資料、及び当時の故実を知る史料として現在まで重要な役割を果たしている。 

 多賀貞隆の子として生まれる。近江国高島郡を領した。はじめは浅井長政に仕えていたが、のちに織田方へ寝返り、元亀3年(1572年)7月には小谷城攻略のため、織田家の諸将とともに虎御前山城に布陣した。また、貞能には後継者となる男子がおらず、堀秀重の次男・秀種に娘を嫁がせて養子としている。
 天正10年(1582年)の本能寺の変に際して明智光秀に与して山崎の戦いにも参戦したため、戦後に所領を没収された。『老人雑話』によれば、明智方の敗北を察し早々に戦場を離脱したため、却って褒美を受けたとされるが、堀秀政との縁故により助命されたともいわれる。

多賀秀種 久徳宗重

 美濃国茜部村にて堀秀重の次男として誕生する。幼名は源千代。
 天正8年(1580年)に多賀貞能の婿養子となるが、天正10年(1582年)に貞能が本能寺の変に際して明智光秀に与したため所領を没収されると、佐和山城主となった兄・秀政に仕えて2,000石を与えられた。
 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍し、翌天正13年(1585年)には秀政の越前転封に従って4,500石、翌天正14年(1586年)には8,000石を与えられた。天正16年(1588年)4月13日、従五位下・出雲守に叙任される。
 天正18年(1590年)には秀政に従って小田原征伐に従軍するが、4月20日に秀政が陣中で病死したため、急遽豊臣秀長の陣に加わった。戦後は秀長の与力となり、大和国宇陀松山城主となる。秀長・秀保父子の死後は豊臣秀吉に仕え、文禄3年(1594年)春には伏見城の普請を分担、翌文禄4年(1595年)9月21日には大和国宇陀郡のうち20,659石を与えられた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは初め徳川家康に誼を通じたものの、後に西軍に属して大坂城玉造口を警備し、大津城攻めにも参加したため、戦後に所領を没収された。その後、甥の堀秀治を頼って越後国に赴き鴎庵と号した。また、このときに『越後在府日記』を記している。
 慶長15年(1610年)、堀氏が改易されると京都に赴いて赦免され、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では処士を以て出陣した。その後、前田利常に6,000石で組外頭として召し抱えられた。元和2年(1616年)11月3日、死去。享年52、もしくは53、または49とされる。
 子孫は加賀藩人持組として5,000石を知行。数代後の幕末期の当主であった直昌は、茶道宗和流金森家に跡継ぎがいなくなった際に推挙され、隠居してこれを継承し、茶道に専念した。 

 犬上郡久徳の地を賜り、代々京極氏に仕えたが、浅井氏が勢力を強めるとこれに従った。その後、六角氏に通じたため浅井方に攻められ、久徳城を落とされた。 久徳左近兵衛尉は兄である実時の跡を継ぎ、織田信長の家臣となった。
 元亀元年(1570年)6月、織田信長より黒印状によって多賀荘等で3,000石を宛行われる。12月、浅井方の高宮右京亮の攻撃を受けるが、これを撃退した。元亀2年(1571年)1月、信長は昨年の敢闘を称し、今春早々に高宮氏を退治する予定であることを告げている。この際、堀秀村に対して、久徳に益々忠節を尽くす様申し聞かせるように、という書状が出されており、織田氏の家臣として両者は対等ではなく、秀村の指示を受ける立場であったことが知られる。
 元亀4年(1573年)7月、槇島城の戦いに従軍。8月には朝倉攻めの先手を務めたが、遅れを取って信長より叱責を受けている。天正2年(1574年)、堀秀村が改易され、秀村を与力としていた羽柴秀吉も天正5年(1577年)より中国攻めで播磨国へ赴いたため、以後は信長直参の旗本になった。
 本能寺の変後の山崎の戦いでは一族の久徳六左衛門尉が明智方として参戦しており、久徳氏は明智光秀に味方したものと考えられている。 そのため一時的に所領を没収されたとみられるが、天正11年(1583年)8月、秀吉より改めて旧領の犬上郡多賀荘内で3,000石を宛行われている。
 天正12年(1584年)7月、久徳新介(宗重の子)と河尻秀長が用水について相論を起こした際、秀吉は河尻秀隆と久徳左近兵衛尉の時に解決した問題だと語っており、 この時までには宗重は引退もしくは没したものと思われる。 

多賀清直 多賀宗直

 多賀氏の一族で多賀出雲守家の出身。京極氏の家臣。応仁の乱の最中の文明2年(1470年)に京極持清が没し、持清の嫡孫・孫童子丸を擁立した孫童子丸の叔父・京極政経と義弟の多賀高忠に反発、政経の兄・政光と共に孫童子丸の庶兄・乙童子丸(後の高清)を擁立して西軍に寝返り、六角高頼・斎藤妙椿らと組んで政経・高忠と交戦した(京極騒乱)。一時は高忠の前に苦戦を強いられるが、文明4年(1472年)9月に六角高頼・斎藤妙椿らの加勢で高忠を破った。
 文明7年(1475年)に出雲国人を率いた高忠が反撃したが、11月に土岐成頼・斯波義廉の援軍で勝利、北近江の領有を確実とした。文明4年に政光が亡くなってからは子・宗直と共に文明11年(1479年)に死去するまで乙童子丸の補佐と北近江の統治を行った。 

 京極氏の家臣多賀氏の一族で多賀出雲守家の出身。諱の「宗」の字は京極材宗から偏諱を賜ったものと思われる。
 京極氏のお家騒動(京極騒乱)では父と共に京極乙童子丸(後の高清)を擁立して乙童子丸の叔父・京極政経(材宗の父)及び多賀高忠と衝突を繰り返し、父が文明11年(1479年)に亡くなった後も抵抗を続けたが、文明13年(1481年)に室町幕府の仲介で高忠と和睦、高清の補佐として事実上北近江の実権を握った。文明17年(1485年)に出家、大成と号した。
 文明18年(1486年)8月、京極政経・材宗父子が出雲から上洛すると、政経父子と結んで高清に反乱を起こし、高清を甲賀郡三雲に追放したが、10月に高清の反撃に遭い美濃へ逃亡、翌長享元年(1487年)に北近江に戻ったが、5月1日に国友河原で敗北、浅井郡月ヶ瀬の城館に逃れたが包囲され自殺した。宗直の自殺で多賀出雲守家は断絶した。