<神皇系氏族>天神系

NK10:中原貞親  磯城黒速 ― 十市磐古 ― 中原有象 ― 中原致時 ― 中原貞親 ― 中原師員 NK13:中原師員

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中原師員 中原師連

 第4代将軍・藤原頼経(九条頼経)の侍読で腹心の一人。鎌倉幕府評定衆筆頭席次の初代であり、北条氏の台頭後も北条氏以外の御家人としては最高の席次を保った。また、博士家中原氏の傍流にも関わらず、朝廷で正四位下・大外記明経博士に昇った。宮騒動による頼経失脚後も幕府内での地位を落とすことなく、評定衆として活躍し続けた。
 家学の明経道(儒学)だけではなく、有職故実から天文・方位・吉凶に通じた博学の人であり、主君や評定に対する答弁も巧みで、周囲から深く信頼されていた。歌人としては勅撰和歌集『千載和歌集』に入集した。
 孫の親致は本姓を藤原氏に改姓し、鎌倉・室町の両幕府に高級官僚として仕えた武家摂津氏の祖となった。

 

 5代将軍となった藤原頼嗣,宗尊親王,惟康親王の3代に仕え、1263年(弘長3年)7月5日に二階堂行方の後を継いで宗尊親王の御所奉行、同年11月22日には御息所の奉行も引き継ぐ。1264年(文永元年)評定衆となった。
 鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲する。その家系は「将軍側近の家」との性格をもっていたが、師連の子の摂津親致の代から中原姓を藤原姓に改姓した。また、「将軍側近の家」のまま得宗家にも接近し、その近臣ともなっている。
 『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。

摂津親鑑 摂津高親

 親鑑は能吏として優れた人物で、文保元年(1317年)に持明院統と大覚寺統の間の調停を執り行って文保の和談を成立させたり、正中3年(1326年)に嘉暦の騒動が起こった際には、北条貞顕に執権職に就任するよう懇請するなどの活躍を見せ、能吏として台頭。御内人の宿老に名を連ねるほど重用され、幕政中枢で力を振るった。
 『太平記』によれば、元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府が新田義貞の攻撃により滅亡した際には、北条一族初め幕府の要人らと共に滅亡に殉じたとされ、自害に際しては長崎高重から「自分の自害を肴に一献傾けて欲しい」と頼まれ、「かような肴を献じられては、下戸でも飲まないわけには行かない」と、快諾して一献傾け、切腹したと伝わる。 

 得宗・北条高時に仕えて引付衆を務めたようである。また、元徳2年(1330年)2月の段階では官途奉行であったことが判明している。
 『太平記』によれば、鎌倉幕府滅亡時に高時らと共に自害した人物の中に摂津宮内大輔高親が含まれており、これを信ずるならば、父と同様に、元弘3年/正慶2年(1333年)の東勝寺合戦で自害したことになる。尚、『尊卑分脈』の中原氏略系図によれば、子に時親、孫に能連がいる。また、親鑑の叔父にあたる摂津親秀の系統が能連の子である能淳の所領を継承したとみられる形跡があることから、能淳の没後に高親の系統が断絶した可能性が高い。 

摂津晴門 三池親盛

 13代将軍・足利義輝と15代将軍・足利義昭の兄弟に家臣として仕える。義晴の時代である享禄元年(1528年)に中務大輔に任ぜられている。
 父である元造の養女であった春日局(日野晴光室)は13代将軍・足利義輝の乳母を務めたため、晴門は義輝にとっては義理の伯父にあたる。父の元造は足利義晴の死去時に出家した後も官途奉行,地方頭人,神宮方頭人を務めており、晴門がこれを補佐していたが、永禄5年(1562年)頃に元造が死去すると、これらの地位を晴門が継いだ。同年、松永久秀によって伊勢貞孝・貞良親子が討たれるという事件がおき、永禄7年(1564年)には敵対していた伊勢氏に代わって、新たな政所執事として起用された。
 だが、その翌年には永禄の変が起こり、二条御所にて義輝以下数十名の家臣が殺害された。また、この永禄の変で晴門の嫡子であった13歳の糸千代丸も死亡している。変後もなお、摂津氏が世襲していた官途奉行などの地位は安堵されていたとみられているが、三好氏らが推す次期将軍候補であった足利義栄が伊勢貞為(貞孝の孫)の出仕を認めたことに晴門は反発し、永禄9年(1566年)5月以降京都を離れた。
 永禄11年(1568年)2月の足利義栄への将軍宣下に際してはこの式への出席を拒み、一方で同月に行われた義輝の弟である足利義昭の元服の奉行を務めていることから、この時には義昭に従っていたとみられる。
 永禄11年(1568年)10月、織田信長と浅井長政の上洛軍に警護されて上洛した足利義昭が、将軍に就任した。兄の義輝と同じように、義昭も再び晴門を政所執事として起用した。その後、元亀2年(1571年)1月まで室町幕府の政所執事として活動の記録がある。同年2月に神宮方頭人を兼ねていた晴門が藤波康忠に相談なく伊勢神宮の禰宜職に関する武家執奏を行ったとして、義昭の怒りを買って逼塞を命じられている。
 翌元亀3年(1572年)には足利義昭から朝廷への使者を務めていたことが確認されているが、それが記録上の最後の記録となり、間もなく死去したか引退したとみられている。 

 永正17年(1520)、大友義鑑の弟・重治が菊池氏の当主となり、のちに義武と名乗った。隈本城に入った義武は次第に傲慢な態度を見せるようになり、大友宗家からの独立を図って兄・義鑑と対立するようになった。これに三池親盛,西牟田親毎,蒲池能久ら筑後の国衆らが味方して、天文3年(1534)、反大友の兵を挙げた。この戦いで、三池親盛は没落したようで、嫡男と思われる親員が三池氏の当主として登場する。系図によれば、親員は親盛の弟とするものもある。 
三池親家 三池親員
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に、親家,親氏,親光兄弟は立花宗茂に従って出陣、大津城攻めに功があった。しかし、戦いは西軍に敗北に終わり、柳河に帰った宗茂は鍋島氏の攻撃を受けた。その間、親氏は大津で戦死し、親光は鍋島との戦いに戦死した。親家は柳河を改易処分になった宗茂に従って肥後に退き、そこで28歳の若さで死去した。子の親頼が慶長13年に至って加藤清正から八百石の合力を得たが早世した。

 天文年間(1532~55)頃の筑後国には、大身十五家があって、筑後十五城主と称された。そのなかの最大のものが柳河の蒲池氏で、三池氏もその一に数えられていた。
 天文19年(1550)、大友家に家督相続をめぐる内紛が起こり、大友義鑑の嫡子・義鎮が庶子の塩市丸派を粛清して当主の座についた。世に「大友二階崩れ」といわれる事件で、大友氏と密接な関係にある筑後国人にも影響を与えた。
 この年、義鎮の叔父で肥後の菊地氏を継いでいた義武が反大友の軍事行動を起こすと、西牟田親氏,三池親員,溝口鑑資らは義武に応じて大友に背いた。しかし、豊後勢が筑後に侵攻してくると、三池氏らは次々と大友氏に降伏した。乱後、親員は没落したようで、三池氏は親員に代わって親高が登場する。