百済系渡来氏族

MS02:三善康光  百済王朝1 ― 三善克興 ― 三善康光 ― 町野康俊 MS03:町野康俊


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町野康俊 問註所統景
 承元2年(1208年)に従五位下に叙され、承久元年(1220年)には鎌倉に入って父の職だった問注所執事を継いだ。嘉禄元年(1225年)には評定衆、寛喜元年(1229年)に加賀守、嘉禎元年(1235年)に従五位上に叙された。嘉禎4年(1238年)、京都で死去。 康俊の子孫は戦国時代に豊後国で大友氏に仕えて活躍した問註所氏が知られる。

 筑後国長岩城城主。問註所氏は筑後十五城の一角。初めは豊後国の大友氏に属し、大友義統より偏諱を与えられて統景と名乗る。天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が大敗し、影響力を弱め、代わりに肥前国の龍造寺氏が筑後で勢力を伸ばし、諸勢力の殆どが大友氏から龍造寺氏に次々と寝返った後も、五条鎮定と共に大友氏に筋を通し、筑前国の秋月氏らの監視に当たった。その後、筑後は龍造寺勢にほぼ制圧されるが、居城・長岩城に攻め寄せた秋月氏・星野氏の連合軍を撃退、逆に星野氏の支城を落とすなど孤軍奮闘し、大友家の家紋である杏葉紋の使用を許され、一門に准ずる扱いとなった。
 龍造寺隆信の死後は、黒木氏・田尻氏ら筑後の反大友諸勢力の駆逐に貢献。大友本軍が豊後に引き上げた後も、筑後支配の押さえとして残った。天正12年(1584年)12月、秋月氏・星野氏・大叔父の問註所鑑景らが居城へ押し寄せたが、統景と弟・鎮春はこれを撃退して、鑑景らを逆に討ち取る勝利を得ている。後に薩摩国の島津氏の侵攻も受けるが、これも長岩城に籠城し、最後まで守りきっている。豊臣軍の到着後は、日向国侵攻の先導役として先陣を務めた。戦後、本領を安堵された。
 豊臣秀吉の九州平定後は小早川氏に従い、文禄の役に参陣。度々合戦で戦功を挙げたというが、『問註所家譜』によると文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景・正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって晋州城外南西方向河東郡(慶尚南道)へ向かって二十里ほど前進する際、明の劉綎と遭遇し数百兵が戦死した。この戦は立花宗茂が小早川軍を救援したため、子の政連は立花氏に出仕した。

問註所政連

 小早川氏や熊本藩主・加藤氏に仕え、最終的に石高500石・客将待遇で柳河藩立花氏に仕えて物頭を勤めた。柳河藩再仕官時の所属は組外、後に六組(大組)の一つ矢島采女組。
 小早川氏の家臣となっていた父・統景が朝鮮出兵中に朝鮮半島にて戦死すると幼少故に流浪する。慶長3年(1598年)に柳河藩に入り、母の従兄弟にあたる立花宗茂に仕官し、翌慶長4年(1599年)には高1000石を拝領した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは宗茂に御供して大津城攻めに参加し、後に感状を貰う。しかし、宗茂の属する西軍が徳川家康率いる東軍に敗れたために宗茂は改易となり、その家臣である政連の1000石も没収となる。
 その後、加藤清正の招きに応じた宗茂に同伴して肥後国に入る。慶長7年(1602年)に宗茂が肥後を立つが、これに同行せずにそのまま清正に仕官した。元和7年(1621年)に肥後から柳河に戻って再封された宗茂に客分待遇で仕官した。ただし、柳河藩自体が13万2000石から10万9000石に縮小していたこともあり、500石での仕官であった。また、これとは別に部屋住みの長男の康辰(小兵衛)に150石拝領されている。
 寛永14年(1637年)に病死すると、家督は康辰が相続し、石高500石は康辰と分家して町野氏を称した次男の茂成に分割相続された。