<皇孫系氏族>天武天皇後裔

KH01:清原有雄  天武天皇 ― 舎人親王 ― 清原有雄 ― 清原光方 KH02:清原光方

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清原光頼 清原武貞

 光頼の系統は安倍氏と姻戚関係にあったとも考えられている。その後、源氏の源頼義と安倍氏の戦いである前九年の役時は当初は中立の立場を保っていたが、黄海の戦いで大敗するなど陸奥の安倍氏に苦戦を強いられた源頼義は万策尽きて、光頼に臣下の礼の形を取ってまでも参戦を依頼する。
 これを聞き入れた光頼は自らは出陣せず、弟・武則を大将とした大軍を陸奥に派遣する。形勢は逆転し、安倍氏は滅亡した。この功により、武則は朝廷より従五位下・鎮守府将軍に補任され、清原氏は安倍氏の旧領を併呑して、奥羽にまたがる大勢力を築くに至った。この清原氏の覇権は後三年の役〔永保3年(1083年) ~応徳4年・寛治元年(1087年)〕まで続くことになる。この時から、出羽秋田城(長官:秋田城介)と陸奥鎮守府(長官:鎮守府将軍)に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化されたものと考えられている。
 鎮守府将軍としての任務遂行のために陸奥に移った武則とは別に、光頼はそのまま出羽に留まったものと思われる。本拠地は平鹿郡大鳥井山(現在の秋田県横手市)であったといわれる。光頼の子には大鳥山太郎頼遠がいたが、この後は武則の子が清原氏の本流になるなど、光頼・頼遠親子と武則,武貞,真衡との間の力関係や主従関係については解明されていない点が多い。頼遠は前九年の役の際に衣川関から逃亡した安倍正任と良昭を匿い、出羽守・源斉頼の軍勢に包囲されたという。頼遠が敵方である安倍氏を匿ったのは、正任が清原氏嫡宗家と女系の親族関係で結ばれており、彼の妻が頼遠の姉妹だったからであると考えられる。後に頼遠は後三年の役の折に源義家により滅ぼされた。 

 源頼義の要請により、父・武則とともに陸奥の前九年の役に参戦し、安倍氏を滅ぼす。この時、既に嫡子・真衡がいたが、処刑された藤原経清の妻の有加一乃末陪を妻にし、その連れ子を養子とした(のちの藤原清衡)。その後、家衡も生まれ、この三人兄弟の関係がのちの後三年の役の原因となった。
 安倍氏の女は無理矢理、武貞の妻にさせられた形ではあるが、連れ子の清衡も清原氏の血統の子と同格に扱われたことなどから、戦利品としてではなく陸奥の旧安倍氏勢力を平和的に取り込む意図があって縁談が結ばれたものと考えられている。
 武貞には、弟に後三年の役で討たれる武衡、姉妹に吉彦秀武の妻などがいる。

清原真衡 清原家衡

 清原家衡の異母兄、藤原清衡の継兄。延久年間に行われた延久蝦夷合戦などで活躍し鎮守府将軍従五位下であったとの史料がある清原貞衡と同一人物とする説がある。
 父・武貞の死後、清原氏を嗣ぎ、海道平氏の一門、成衡を養子に迎えた。その成衡に源氏棟梁である源頼義の娘を嫁がせることで清原氏の家格を高めようとしたとも考えられている。しかし、こうした一連の政略結婚政策を遂行する中で棟梁としての権力を強化し、一族の家人化を進めたため、叔父・吉彦秀武や弟の家衡,清衡の離反を招いた。これが1083年(永保3年)に始まる後三年の役の背景である。
 後三年の役の発端は、成衡の婚礼のために出羽より陸奥に参上した秀武が、祝いの品である砂金を頭上に掲げて控えていたにもかかわらず、奈良法師との囲碁に夢中になっていた真衡が、それを忘れて長時間待たせてしまったことにある。屈辱を受けた秀武は大いに怒り、砂金をぶちまけて出羽に無断で帰ってしまった。これに怒った真衡は直ちに秀武討伐の軍を起こして出羽に向かったが、秀武は自らと同じく日頃から真衡に不満を持っていた真衡の異母弟の家衡と義弟(家衡の母の連れ子)の清衡に挙兵を促して、真衡の背後を突かせようとした。家衡・清衡は兵を挙げて真衡の館に迫ったが、それを知った真衡が軍を返して家衡・清衡を討とうとすると、彼らは本拠に退いた。
 その年の秋に、新たな陸奥守として成衡の妻の兄である源義家が下ってくると、真衡は義家に対して三日厨と呼ばれる三日間に渡る歓待を国府で行った後、秀武を討つために再び出羽に出陣した。家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、留守を守る真衡方が奮戦し、さらに義家が真衡側に加勢したため、家衡・清衡は惨敗を喫して義家に降伏する。だが、真衡自身は出羽への行軍の途中に病で急死した。
 真衡の遺領は、義家の裁定により家衡と清衡に分割相続されるが、今度は両者が争い始め、後三年の役は第二段階に移ることになる。 

 清原真衡の異母弟、藤原清衡と刈田経元,経光の異父弟。
 家衡の父・武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻・有加一乃末陪を自らの妻とした。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた清衡がいた。清衡は武貞の養子となり、さらにその後、武貞とその女性の間に清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。この事実から前九年の役が終結した1062年(康平5年)以降に家衡は生まれたと推測できる。
 家衡は、清原氏の当主である真衡が惣領権を強化して、一族の家人化を進めたことに反発を抱いており、1083年(永保3年)、真衡が一族の吉彦秀武討伐のために出羽国に出陣した際に、秀武の誘いにより真衡の背後を突くために清衡とともに挙兵した。だがそれを知った真衡が軍を返して家衡・清衡を討とうとしたため、いったん本拠に退いている。
 同年秋、新たな陸奥守として源義家が下ってくると、真衡は再び秀武討伐に出羽へ出陣した。家衡と清衡はその隙に真衡の館を襲撃したが、真衡の妻子が応戦し、さらに義家も救援に駆けつけたため、家衡・清衡は大敗を喫して義家に降伏した。
 だが真衡が出羽への行軍途中に病で急死したため、家衡は許されて、義家の裁定で真衡の旧領である奥六郡を清衡とともに三郡ずつ分割継承することになった。しかし家衡はこの裁定に不満で、清衡との対立を深めてしまい、1086年(応徳3年)にはついに清衡の館を襲撃して清衡の妻子を殺害した。
 清衡は義家に救援を仰ぎ、自らの裁定に逆らった家衡の行為に怒った義家は清衡に味方して家衡を攻撃したが、沼柵に立てこもった家衡は、攻め寄せた清衡・義家を打ち破った。これを聞いて一族の誉れとした叔父・清原武衡は家衡に味方し、家衡は武衡の誘いで、より強固な金沢柵に移った。1087年(寛治元年)、金沢柵に攻め寄せた清衡・義家はこれを攻めあぐんだが、清衡に味方した吉彦秀武の献策による兵糧攻めで柵は陥落した。家衡は所有していた名馬・花柑子を射殺したのち、下人に変装し逃亡を図り、近くの蛭藻沼に潜んでいるところを捕らえられて斬られた。これにより奥羽に覇をとなえた清原氏は滅亡した。前九年の役終結後に生まれたことを考えると、享年は26以下と見積れる。 

清原成衡 清原武衡

 海道小太郎と号した。平安忠の次男と『清原系図』にあるが、出羽守平泰貞の子とも、常陸大掾忠衡,平則道,平繁衡の子とも伝わる。いずれも海道平氏の一族出身で陸奥国磐城郡近辺の豪族出身であることは異論がない。正室は藤原清衡の養女、側室は源頼義の娘であった。
 『寛政重修諸家譜』によれば、成衡の父は常陸大掾・平忠衡であり、藤原経清の聟であったため、前九年の役の際には源頼義に疑われ、常陸国から武蔵国入間郡に移り住み、家臣の大須賀胤業という人物の食客となったとされる。
 一般的には、真衡が清原氏の家格を高め武家として確立させるために、平氏出身の成衡を養子とし源頼義の娘をその妻に迎えて、源平両氏の血筋を後継者としようとしたと見られているが、そもそも清原氏の出自自体も成衡の出身である海道平氏の流れとする見解もある。
 成衡の婚礼の際に吉彦秀武が真衡と反目したことが後三年の役の発端となったが、真衡急死後の成衡の動向は不明とされており、役の最中に討ち死にしたとも言われている。だが、妻の兄である源義家の庇護のもと下野国塩谷郡に居を構え、後に常陸国住人・中郡頼経に討伐されたとの説もある。
 『寛政重修諸家譜』によれば、陸奥国の藤原清衡の元にいたが、父・忠衡の無実の罪が許されたために本領(常陸国)を安堵されたという。その後に陸奥国の菊多,駒木根,鯨岡,片寄,岩城,行方,磐前,楢葉,椎葉などを領し、岩城を本拠地として白土城に住んだ。永暦元年(1160年2月25日)に51歳で死亡し、業佐と号した。


 『百錬抄』寛治元年(1083年)12月26日条には「平武衡」と武衡の名が平姓を冠して記されている。このことから、海道平氏の平貞衡(小松柵合戦で源頼義の兵として名が見える平貞平か)が清原氏へ、清原氏の清原武衡が海道平氏へと、両氏の間で養子の交換が行われた可能性がある。その際、貞衡はおそらく清原武則の娘婿として奥六郡主の後継者の座に就き、同時に清原真衡,藤原清衡,清原家衡の継父として彼らの後見役の役割を担うことになった。
 父・武則が源頼義の要請により前九年の役に参戦し安倍氏を滅ぼした際には名前は見えない。清原氏の相続争いとなった後三年の役において沼柵に籠もった甥・家衡が清原清衡・源義家連合軍を破るとこれに応援に駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵に移ることを勧めた。
 しかし、義家方に加わっていた吉彦秀武の献策により兵糧攻めが行われると柵内の士気は低下し、これを回復しようと、武衡の乳母の子の平千任が義家に向かって「汝が父・頼義、貞任宗任をうちえずして、名簿を捧げて故清将軍を語らい奉り、偏にその力にて、たまたま貞任をうちえたり。恩を担い徳を頂きて。いづれの世にか報ひ奉るべき。しかるを汝すでに相傳の家人としてかたじけなく重恩の君を攻め奉る。不忠不義の罪さだめて、天道の責めをこうぶらんか」と言ったが、義家方の恨みを買っただけであった。
 武衡は義家の弟・義光に連絡して降伏しようとし、一度義光の郎党である藤原季方が交渉にやってきたこともあったが、義家はこれを許さなかった。柵の陥落後、近くの蛭藻沼に潜んでいるところを捕らえられた。刀の鞘の尻を切って口に当て、水中に沈んでいたとされる。武衡は一日の助命を請い、義光も降人を助けるのは古今の例と助命嘆願したが、義家は宗任のように自首する場合を降人と言うべきで、武衡は違うとして斬首した。
 その後、義家は、千任の歯を金箸で折り舌を切った上で木の枝に吊し、足下に武衡の首を置き、千任が疲れて首を踏むと「二年の愁眉今日すでにひらけぬ」と喜んだという。