<継体朝>

K335:亀山天皇  亀山天皇 ― 恒明親王 K337:恒明親王

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恒明親王 満仁親王

 乾元2年(1303年)親王宣下。幼い頃は年上の甥にあたる尊治親王(後の後醍醐天皇)とともに、父・亀山法皇の寵愛を受けて育てられる。嘉元3年(1305年)に亀山法皇が病死するが、遺詔でその財産の多くを恒明親王に与えた上に、自分の孫に当たる後二条天皇に対しては次の大覚寺統の皇位は天皇の嫡男・邦良親王ではなく、恒明親王を立てるように命じた。恒明親王の母・昭訓門院の兄で関東申次であった西園寺公衡は直ちに鎌倉幕府にこの旨を伝え、もう一人の妹である永福門院の夫である持明院統の伏見上皇の協力を求めた。伏見上皇も自分の息子である後伏見天皇を無理やり皇位から降ろさせた後宇多上皇(亀山法皇の子で後二条天皇・尊治親王の父、当時院政を行っていた)への反感から、これに同意する姿勢を幕府に伝えた。だが、幕府は大覚寺統の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には同意しなかった。
 徳治3年(1308年)に後二条天皇が急死すると、幕府は邦良親王の成長までの中継ぎの天皇になるべき親王を大覚寺統から選ぶことを認めたが、それは恒明ではなく当時の院政執行者であった後宇多上皇が推した尊治親王であり、この時点で恒明親王の皇位継承の可能性は絶たれた。なお、この件で後宇多上皇と完全に対立関係に陥った西園寺公衡は、上皇から出仕停止の扱いを受けてしまった。同時に大覚寺統側からその政治的立場に疑いを持たれるに至り、関東申次職を背景に朝廷内で隠然たる力を振るっていた西園寺家はその政治的求心力を大きく損なうことになった。
 文保2年(1318年)元服。文保3年(1319年)中務卿に任ぜられたのち、式部卿を経て、嘉暦2年(1327年)二品に叙される。その後、後醍醐天皇の側近として、建武の新政でも元弘4年(1334年)一品・中務卿、建武2年(1335年)式部卿に叙任される一方で、持明院統の皇族とも親密な関係を保った。後醍醐天皇が吉野に移った後も、持明院統側の説得を受けてそのまま平安京に留まったまま、正平6年(1351年)9月6日薨去。享年49。亀山天皇から邸宅・常磐井殿を譲られたことから常磐井宮を称した。なお、戦前の皇国史観においては、鎌倉幕府が亀山法皇の遺詔を無視して恒明親王を立てなかったことを「不忠」であると非難する主張がなされることがあったが、幕府はあくまでも亀山法皇の嫡男でありかつ当時の治天の君であった後宇多上皇の意向に従っただけに過ぎない。

 常盤井宮3代当主。かろうじて親王になることができ、弾正尹などを務めたが品位は無品のまま据え置かれた。全仁親王の子として生まれたが、長らく親王宣下を受けることができず、ついに焦燥のあまり愛妾・小少将を足利義満に差し出してその推挙を得て、永徳元年(1381年)にようやく親王宣下を受けることができた。三条公忠は日記『後愚昧記記』に「諂諛(媚びること)せらるるの故に、武家(=室町殿足利義満)挙申す」と記して嘲っている。「本来ならば親王になどなれない人である」と評した者もあったという。その後、親王が任じられる慣例の弾正尹に任じた。
 その後は義満の家臣同然に扱われており、(一般常識では考えられないが)諱の「満」(旧字体:滿)の字は義満から偏諱を与えられたものと考えられる。また、応永2年(1395年)に義満が出家した際には「法名は何にするつもりか」と問われ、もともとそのつもりはなかったにもかかわらずあわてて出家している。一条経嗣は日記『荒暦』に「力なく俄に出家と云々、言語覃ばざる事等なり」と記している。その後は、常磐井入道親王と呼ばれた。応永33年(1426年)に死亡した。

直明王

 常盤井宮家4代当主。応永33年(1426年)10月、父親王の薨去によって常盤井宮家の遺跡を相続したが、時の室町殿・足利義持が親王の存在に無関心であったらしく、王は親王宣下を受けられなかった。ところが、永享3年(1431年)11月、将軍・足利義教の新邸造営に伴い、北小路にあった邸宅が遁世者の宿舎に充てられたため、王は小川殿小御所に移住することになる。これが機縁となり、王は同年の歳暮の参賀で初めて室町殿へ参じ、さらに同4年(1432年)2月には3歳の子息を義教の猶子とし、伏見宮貞成親王はこれについて日記に「常盤井開運基歟」と記している。この子は翌年(1433年)3月夭折するものの、これで宮家と将軍の関係が切れた訳ではなかった。
 一方、王はかつて宮家の所領であった越前足羽荘の返付を将軍義教に求めた。室町幕府では一条家の文書によってその知行を正当と認めたため、王の要求は叶わなかったが、光範門院(後小松天皇後宮)を「不快」としていた義教は、その御領である昆布干鮭公事を没し、永享6年(1434年)3月これを王に進上した。なおそれでも所領に関し異存を申し立てた王はやがて義教の不興を買うところとなり、同8年(1436年)5月、遂に義教は王の所領を削り、その公事を伏見宮貞成親王に進上している。幕譴を受けた王はしばらく屏居の憂き目に遭ったが、同10年(1438年)12月、永享の乱鎮定後の大赦に伴って処分を解かれた。その後、後花園天皇の実家伏見宮を厚遇する義教とは疎遠になったようで、嘉吉の乱を控えた嘉吉元年(1441年)には「此宮近日窮困無比類、断食無人過法云々」と噂される有様であり、結局、親王宣下を受けられぬまま文安4年(1447年)以前に出家した。
 没年と年齢に関しては確証がない。歌人としては、永享6年(1434年)の『永享百首』に詠進し、勅撰集『新続古今和歌集』には2首が入集している。