第95代天皇(在位:1308年9月11日~1318年3月29日)。諱は富仁。伏見天皇の第四皇子で、母は、左大臣洞院実雄の女・季子(顕親門院)。 延慶元年(1308年)11月、大覚寺統の後二条天皇の崩御に伴い12歳で即位。文保2(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。在位期間の間、前半は父の伏見上皇が、後半は後伏見上皇が院政を敷いた。 退位後は光厳天皇の養育を行い、元徳2年(1330年)2月、皇太子時代の光厳天皇を訓戒するために記述した『誡太子書』は、来るべき動乱の時代を予見した文章として名高い。また、禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月に円観について出家、法名を遍行という。宗峰妙超,関山慧玄を師とし、興国3年(1342年)1月、仁和寺花園御所を寺に改めて妙心寺を開基。正平3年(1348年)11月、花園萩原殿にて崩御された。宝算52。 歌道や学問,書道に優れ、京極派の重要なメンバーの一人で、『風雅和歌集』の監修を行った。他にも『花園天皇宸記』という日記を残し、読経・念仏を欠かさなかったなど、文人肌で信心深かったと言われている。『誡太子書』と同じく、天皇が光厳天皇に向けて書いたとされる『学道之記』の冒頭部分で、「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためにある」と述べ、天皇にとって学問とは何たるかをよく示している。反対に、博学だけを吹聴したり、風月文章をもって旨とすることを「学者之弊」として戒める記述が『花園天皇宸記』に散見する。
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本来、父の花園天皇は持明院統においては傍流であり、その皇位は嫡流である後伏見天皇-光厳天皇-崇光天皇の系統に引き継がれるものと考えられていたために、親王は皇位継承に与れる立場にはなかった。ところが、正平3年(1348年)に元服すると光厳天皇の猶子として皇位継承権が与えられ、その年の10月27日に義兄にあたる崇光天皇の皇太子に立てられた。 ところが、観応の擾乱の最中の正平6年(1351年)、室町幕府の征夷大将軍である足利尊氏が南朝の後村上天皇に降伏、これを受けて南朝軍が京都を制圧して北朝方皇族を拘禁した。11月7日(11月26日)、南朝によって崇光天皇の廃位が宣言された(正平一統)。ただし、南朝側との交渉にあたっていた洞院公賢は南朝の後村上天皇の皇太子として直仁を認めるように求めていたらしく、公賢の日記『園太暦』の同年12月15日(1352年1月2日)条には息子・洞院実夏を光厳上皇の許に派遣して将来の直仁親王への継承実現の願書作成の相談を行い、2日後に執筆している。だが、正平7年閏2月20日(1352年4月5日)の南朝軍の京都占領と同時に北朝の東宮職が停止されており、この時点で廃太子が行われたと考えられている。その翌21日、南朝軍は光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子・直仁親王を後村上天皇の行在所があった男山八幡宮に幽閉して、やがて尊氏と南朝が再度対立して南朝軍が京都からの撤退を余儀なくされると、彼らは南朝の本拠である大和国吉野に連行され、続いて賀名生に幽閉された。正平11年(1356年)に解放されて、翌年に京都に帰還するが、京都では既に崇光天皇の実弟である後光厳天皇が尊氏によって擁立された後であり、崇光天皇と皇太子直仁親王の復位要求は拒絶された。 直仁親王は失意のうちに出家して父の御所であった萩原殿に隠退し、南北朝合一後にこの世を去った。『本朝皇胤紹運録』には掲載されていないものの、『看聞日記』などの記事によって親王には周高西堂(応永26年8月13日没)と任西堂(永享3年没)の2皇子、尊立と称される1皇女が存在したのが知られている。だが、全員出家しておりその子孫は伝わっていない。 なお、興国4年4月13日(1343年5月7日)付で書かれた光厳上皇置文には、光厳上皇が直仁親王の実の父親であるとする告白の記述が遺されている。真偽は定かではないが、光厳上皇と宣光門院の間に当時関係が存在しており、そのために上皇が直仁親王を自分の実子であると信じていたのは事実のようである。
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