<桓武平氏>高望王系

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赤川元保 赤川就秀

 毛利元就が家督相続した際に、起請文に署名した宿老15人の中の一人として、兄・就秀とともに元就を支えた。天文19年(1550年)、五奉行制度が始まると、毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命された。隆元側近の重臣として活躍するも、親隆元派として驕慢な振る舞いが多く、親元就派の重臣であった児玉就忠や桂元忠達としばしば対立した。
 永禄6年(1563年)、隆元が和智誠春の饗応を受けた直後、安芸国佐々部で急死する事件が起きた。隆元の死を元保の謀略と考えた元就は、元保の責任を追及し、弟・元久、養子の又三郎共々、蟄居謹慎処分の後、4年後の永禄10年(1567年)に自刃に追い込まれた。
 その死後に、元保は和智誠春の饗応を受けることに反対していたことが判明し、その潔白が確認された。毛利元就は自身の行いを深く恥じ、元保の兄・赤川就秀の次男・元通と甥の元之に赤川家を再興させた。

 

 毛利氏の家臣。兄の元光が討死すると家督を相続した。大永3年(1523年)、主家の毛利幸松丸が死去した際に、毛利元就に家督相続を要請した宿老15名の1人。
 毛利氏が大内氏から尼子氏に鞍替えした大永4年(1524年)に、尼子氏への人質として月山富田城に送られる。しかし、大永5年(1525年)に毛利氏は尼子氏の傘下を離脱することになった。そのため就秀は同じく人質となっていた、井上元貞,光永秀時らと出雲国から逃亡を謀るも尼子軍の追撃を受け、就秀以外は逃亡に失敗して討死した。
 天文11年(1542年)の月山富田城の戦いに従軍して、出雲国内の地理案内を務めた。また月山富田城の詳細を知る人物であったため重宝された。天文24年(1555年)厳島の戦いの後から始まる防長経略にも従軍し、須々万沼城攻略戦にも参加し、大内軍と激しい戦いを繰り広げている。
 没年は不詳。家督は嫡男の元秀が継いだ。また、3男の元通は、就秀の弟であり毛利隆元の急死に連座して自害した赤川元保の跡を継いだ。

赤川元秀
  元秀は、天文10年(1541年)の郡山籠城戦をはじめ、同12年の出雲攻め,同24年安芸矢野城の合戦などで戦功を挙げ、毛利元就より感状を得た。また、永禄11年(1568年)の豊・筑攻めでは陣奉行を命じられた。元亀3年(1572年)の毛利氏掟では年寄衆の一人としてこれを確認している。天正8年(1580年)頃は備後福山城を守備して、四百貫の給地宛行を毛利輝元より約束された。