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赤川元保 | 赤川就秀 |
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毛利元就が家督相続した際に、起請文に署名した宿老15人の中の一人として、兄・就秀とともに元就を支えた。天文19年(1550年)、五奉行制度が始まると、毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命された。隆元側近の重臣として活躍するも、親隆元派として驕慢な振る舞いが多く、親元就派の重臣であった児玉就忠や桂元忠達としばしば対立した。
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毛利氏の家臣。兄の元光が討死すると家督を相続した。大永3年(1523年)、主家の毛利幸松丸が死去した際に、毛利元就に家督相続を要請した宿老15名の1人。 |
赤川元秀 | |
元秀は、天文10年(1541年)の郡山籠城戦をはじめ、同12年の出雲攻め,同24年安芸矢野城の合戦などで戦功を挙げ、毛利元就より感状を得た。また、永禄11年(1568年)の豊・筑攻めでは陣奉行を命じられた。元亀3年(1572年)の毛利氏掟では年寄衆の一人としてこれを確認している。天正8年(1580年)頃は備後福山城を守備して、四百貫の給地宛行を毛利輝元より約束された。 |