<桓武平氏>高望王系

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小早川政景 小早川景宗

 父・小早川茂平は承久の乱で鎌倉方として軍功を挙げ、本拠地・安芸国沼田荘(広島県三原市)などの他に、新たに安芸国都宇竹原荘(広島県竹原市)の地頭職を得ていた。
 正嘉2年(1258年)7月19日、政景は父・茂平より安芸国都宇竹原荘・梨子羽郷の一部などを分与され、 竹原荘に移り住み木村城を築城した。以来、竹原小早川氏はこの地を本拠地とし、代々受け継いでいくこととなる。
 政景は京都にも在住し、幕府・六波羅探題へ忠勤を励み、正応元年(1288年)、新たに備前国裳懸荘(岡山県瀬戸内市邑久町虫明)の地頭職を得ている。正応2年(1289年)、子の小早川景宗,小早川長政(養子)と孫娘・姫石女の3人に所領を分配し、景宗に家督を譲るが、娘・覚生尼と景宗の家督争いとなり、家中は混乱することとなった。 

 正応2年(1289年)、父・政景より安芸国都宇竹原荘,阿波国板西下荘の一部,備前国裳懸荘の地頭職を譲り受けるが、跡継ぎ問題がこじれ、異母姉・覚生尼に、景宗は政景の実子ではないと鎌倉幕府へ訴えられる。
 永仁5年(1297年)、覚生尼の主張が認められ、都宇竹原荘は幕府に没収され建長寺に寄進されてしまう事態となった。景宗は覚生尼の主張は事実ではなく、都宇竹原荘は返還されるべきと訴え続けるが、幕府から本領安堵の回答を得たのは元応2年(1320年)であり、都宇竹原荘が返還されるまで二十余年の歳月を要した。しかし、この問題は建長寺との都宇竹原荘の領有権争いへと発展していくこととなった。
 そのような経緯もあり、景宗は元弘の乱では足利高氏(後の尊氏)の下にいち早く参陣し鎌倉方と戦った。景宗・祐景父子の尊氏への軍功は大きく、建武5年(1338年)本宗家・沼田小早川氏の所領であった沼田荘梨子羽郷半分を与えられている。建武年間以降は足利将軍家に直属していくこととなり、これが竹原小早川氏の勢力拡大へとつながっていく。ちなみに、沼田小早川氏の貞平は、元弘の乱では最後まで鎌倉幕府の六波羅探題に従って行動したため、建武政権のもとで本領・沼田荘を没収されている。 

小早川祐景 小早川重景

 元弘3年(1333年)4月、足利高氏が丹波国篠村八幡宮で鎌倉幕府へ反旗を翻し、諸国に軍勢催促状を発すると、祐景はこれにいち早く馳せ参じ、足利軍の一員として六波羅探題を攻め落とす。この時、本宗家沼田小早川氏の小早川貞平は六波羅探題と行動を共にし、北条一族自決の場を脱出し本国へ逃げ帰り建武政権に所領を没収されている。しかし同年以来、竹原小早川氏も建武政権に度々所領を没収されているようである。
 建武2/延元元年(1335年)、足利尊氏が建武政権から離反し、翌年(1336年)1月、京都で新田義貞の軍に敗れ九州へ向かい敗走する途上の2月に兵庫で兵を募ると、祐景はこれも参陣。尊氏から安芸国都宇,竹原庄地頭職の安堵を得る。この後は、足利氏に直属し南朝方と戦っていく。
 建武5/延元3年(1338年)2月1日、南朝方の軍勢と戦い、奈良で戦死した。建武年間における小早川景宗・祐景父子の足利尊氏への軍功は大きく、これが竹原小早川氏の勢力拡大へと繋がっていくこととなる。

 建武5/延元3年(1338年)2月、父・祐景が奈良で討死したため、同月、祖父・景宗より安芸国都宇竹原荘,阿波国板西下荘(徳島県板野郡板野町)の一部,備前国裳懸荘などの所領を譲り受け、竹原小早川家の家督を相続した。
 興国6/康永4年(1345年)、京都四条堀川・油小路の屋敷地をめぐって千葉胤泰と裁判となり、四条隆蔭の裁定で勝訴している。

小早川実義 小早川弘景

 観応3/正平7年(1352年)、観応の擾乱において足利尊氏・義詮方に属して山城国男山(石清水八幡宮)八幡合戦に参加。
 文和2/正平8年(1353年)12月、幕府の命令に応え、安芸国入野城合戦に参加し戦功をあげる。貞治3/正平19年(1364年)、安芸国西条合戦において討死。

 応永5年(1398年)5月13日、父・仲義より安芸国都宇,竹原荘,備前国裳懸荘,美作国打穴荘など所領を譲り受け、竹原小早川氏の家督を相続した。
 弘景の代から竹原小早川氏は大内氏との関係を強めることとなり、家督相続の頃に大内義弘から偏諱「弘」の字の授与も受けている。その結果、この弘景から三代の間に、その支配領域を安芸国瀬戸内海沿い東半分を占めるまでに拡張し、海の交通の要衝をおさえる国人領主として大きな勢力へと成長を遂げていくこととなる。 

小早川盛景 小早川弘景

 竹原小早川氏は、父・弘景の代から大内氏と関係を深めるようになり、その当主・大内盛見より偏諱を受けて盛景と名乗る。
 応永34年 (1427年)、弘景より安芸国都宇,竹原荘・梨子羽郷南方,備前国裳懸荘,美作国打穴荘などの所領を譲り受け、竹原小早川氏の家督を相続した。
 宝徳2年 (1450年)、室町幕府に命じられ、伊予国守護・河野教通の河野通春討伐に加勢する。この頃、本家・沼田小早川家では家督抗争が起こっていたが室町幕府第6代将軍・足利義教は調停に乗り出し、嘉吉元年(1441年)、盛景が沼田小早川家の家督も相続するようにとの決定を下した。しかし、この決定を沼田小早川家が承服するわけもなく、これが一因となり、両小早川氏は反目し合い、抗争を繰り返すようになり、応仁元年(1467年)の応仁の乱でも激しく敵対した。両家の融和がはかられるのは盛景の孫・弘平の代になってからのことである。


 竹原小早川氏は、祖父・弘景の代から大内氏と関係を深めており、その当主・大内教弘に臣従して偏諱を受け弘景と名乗る(大内義弘より「弘」の字を受けていた祖父と同名となる)。
 寛政6年(1465年)6月、室町幕府は伊予守護・河野通春へ討伐令を出した。これに従い伊予に出陣した周防・長門守護の大内教弘は幕府に背いて河野氏支援に回った。そのため幕府方は同年8月に安芸国人であった武田氏,吉川氏を大内氏への抑えに当てるべく画策した。ところが、教弘は機先を制して重臣の陶弘正を安芸国に派遣。近隣で戦闘を繰り返した。この最中、陶弘正は討死を遂げるなど安芸国内は混乱を続けた。小早川弘景も大内方の一員として安芸船越に出陣し、安芸武田氏と戦った。
 この頃の小早川氏は沼田・竹原両家に分裂しており、その対立は根深いものがあった。応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱では沼田小早川氏と袂を分かち、西軍に味方する。文明5年(1473年)、沼田小早川氏当主の小早川煕平が死去すると、西軍の大将・足利義視は、煕平の所領を弘景に与える御内書を発した。これを口実に安芸・備後国境付近の西軍の主力として、沼田小早川氏の本拠である高山城を攻撃した。
 また近隣の野間氏との関係も悪化しており、前年の文正元年(1466年)3月には、野間公光より譲られた波多見島(現・倉橋島)に野間弘宣が侵入して占拠。大内政弘の仲介によって一度は野間氏と和解するも、上洛中の隙に野間氏の軍勢が再度波多見島を占領し、最終的に奪われる事件もあった。
 文明9年(1477年)、弘景は沼田小早川氏当主で煕平の子の小早川敬平と交渉し、沼田領であった本郷,梨子羽郷の一部所領を竹原領として譲り受けることを条件に和睦した。
 晩年には分国法ともいえる「小早川弘景置文」を作成し、家中の取りまとめの基本とした。没年不詳。 

小早川弘平 船木常平

 竹原小早川氏の第12代当主。室町幕府奉公衆。元服時には、家の慣例に倣って大内政弘より偏諱を受け弘平と名乗る。
 応仁元年(1467年)10月2日、父・弘景より家督を譲り受ける。応仁の乱で西軍として戦った竹原小早川家は幕府と疎遠になっていたが、文明17年(1486年)12月には赦免され、翌18年(1486年)、弘平は中務少輔に任じられる。その後、奉公衆にも復帰した。
 永正4年(1507年)、細川政元が家臣によって暗殺され、さらに政元によって追放されていた足利義尹が大内義興(政弘の子)によって奉じられて上洛を開始すると、弘平はこれに従い、永正8年(1511年)、船岡山の戦いに参陣。
 一方、惣領・沼田小早川家の家督は小早川扶平の死によってわずか4歳の小早川興平が継いでいたものの、足利義尹(のち義稙に改名)が室町幕府将軍職に復帰すると大内義興らがこれを善しとせず、興平に所領の安堵を与えず、大内氏と懇意にあった弘平に継がせようとした。しかし、弘平は幼い興平の後見役をよく務め、所領も要求せず、応仁の乱以来険悪だった両小早川家の融和を図った。この一環として永正10年(1513年)、興平の弟・福鶴丸を養子に迎えている。永正16年(1519年)、実子・興景が生まれたが、この時生存していたとするならば既に50代であったと思われる。
 永正9年(1512年)、安芸国の近隣有力国人・天野興次,天野元貞,毛利興元,平賀弘保,阿曽沼弘定,阿曽沼弘秀,高橋元光,野間興勝,吉川元経らと互いの権益確保を図って一揆盟約を結んだ時も、沼田・竹原両小早川家を代表して弘平が署名している。

 小早川扶平の子として生まれる。幼名は小早川福鶴丸。永正5年(1508年)に父・扶平が亡くなり、沼田小早川氏の家督を継いだ長兄の興平がまだ幼少であったことを契機として、近隣の強大勢力である大内義興らはこの家督を懇意にあった竹原小早川氏の小早川弘平に継がせようとしていたが、これに対し小早川氏の家臣団は、大内氏に支配されることを嫌って、弘平を興平の後見人に迎えた上、永正10年(1513年)には、弘平に対して興平の弟である福鶴丸を養子として取らせて、義興や尼子経久などの介入を未然に防いだのである。
 当初は弘平の養嗣子として竹原小早川氏の後継者とみなされていたが、永正16年(1519年)、弘平に実子の興景が誕生したため、まもなく縁組を解消されたものと思われる。
 その後は一旦実家に戻って、新たに船木姓を称し、元服して諱も「常平」とする。やがて総領家に従って大内氏に属すこととなるが、天文10年(1541年)、尼子氏に通じた罪により殺害された。また別説として、『大内義隆記』では、大内方に転じた総領家(実兄の興平またはその子・正平か)に居城の三石城を攻められて、天文10年(1541年)正月晦日に自刃したと伝える。いずれにせよ、天文10年(1541年)に死去したのは間違いないようであり、遺された子息たちは大内義隆に預けられた。このうちの一人、平賀隆保は義隆の1字を受けて平賀氏を継ぎ、家臣として重用された。

小早川興景

 永正16年(1519年)、小早川弘平の子として生まれる。弘平没後、家督を相続して当主となる。大内義興から一字を頂き「興景」と名乗る。
 大内氏の有力な国人として尼子氏との戦いに従軍し、天文10年(1541年)に毛利元就が尼子詮久の侵攻に対し吉田郡山城で籠城した際には、援軍として毛利氏の救援に赴いた。
 その年、大内氏の命令に従って毛利元就らと共に安芸武田氏の居城である銀山城の攻略に向かったが、陣中にて病を発し、病死した。享年23。興景には男児が無く、元就の3男・徳寿丸(後の小早川隆景)が養子となり家督を相続した。