<桓武平氏>高望王系

H402:平 将常  平 高望 ― 平 将常 ― 色部為長 H423:色部為長

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色部長倫 色部昌長

 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅びると、長倫は後醍醐天皇方に立って、合戦忠節を致すべきことを申し出て許されている。この行動は当時の武士階級全体がそうであったように、自己の所領を全うするためのものであった。
 建武元年(1334年)、長倫は一族の本庄持長,大河将長らと戦い、持長の城を破り大河氏の大河樺沢城も攻め破った。この戦いにおいて、鎌倉初期の入部以来の宗家である小泉本庄の本庄氏と敵対するまでの力を色部氏が蓄えるに至っていたことが知られる。
 建武2年(1335年)、中先代の乱を契機に足利尊氏は後醍醐天皇に叛旗を翻し、半世紀にわたる南北朝の内乱が始まった。色部氏は尊氏に属して、隣接する荒河保の南朝方河村氏と岩船宿で戦った。その後、病を得た長倫は後事を妻に託して死去、家督は長忠が継いだようだ。

 越後国の国人。岩船郡平林城主。永正4年(1507年)、越後守護代・長尾為景が上杉定実を擁立し、越後守護・上杉房能に対し反旗を翻すと(永正の乱)、昌長ら揚北衆の多くは守護方に味方した。為景により房能が自刃に追い込まれて以降も昌長は本庄時長,竹俣清綱らと共に抗戦を続けた。
 同じ揚北衆である中条藤資,築地氏らが為景に属し、色部氏らを攻撃してくると、昌長は平林城に籠城するが、翌永正5年(1508年)に城は陥落、昌長は為景に降伏した。

 

色部憲長 色部勝長

 越後国の国人。岩船郡平林城主。永正の乱において守護を打倒し、越後を掌握した守護代・長尾為景であったが、その積極的な軍事行動のための負担を強いられた国人らは、次第に為景に不満を持ち始める。
 享禄3年(1530年)、上条定憲は為景に対して二度目の挙兵をしたが、定憲に味方する国人は少なく、憲長を初めとした揚北の国人らも定憲に加担はしなかった。このため、この合戦は為景が勝利を治めた。
 享禄4年(1531年)、憲長は中条藤資,本庄房長ら揚北衆や刈羽の諸将18人と共に、連盟して壁書(命令や掟等を壁に掲示した文書)を作成している。

 勝長は長尾為景・晴景・景虎の三代に仕えた宿老である。始め天文2年(1533年)には上条の乱で本庄房長,黒川清実,中条藤資ら揚北衆の国人と共に為景の下から離れて上条定憲方に加わり、家督を晴景に譲って隠退させることで為景を引退に追いやった。その後、最後まで抵抗を続けたが、最終的に晴景に帰属し次第に乱は終息していった。
 しかし、天文8年(1539年)に上杉定実の養子問題を巡って天文の乱が発生すると房長・清実らと共に伊達晴宗方につき、伊達稙宗方についた藤資の居城・鳥坂城を攻撃している。この乱の途中で小川長資,鮎川清長による本庄家中の謀反が発生し房長が没すると、両者の調停に入っている。それから12年後の天文20年(1551年)に房長の子・本庄繁長が長資を自害に追い込んで仇討ちを果たし、清長を討ち取ろうとしたときには再び両者の仲裁をしている。
 景虎(上杉謙信)の代では謙信の信任も厚く、関東での北条氏康との戦いで活躍し、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは柿崎景家の危機を救うなど、上杉軍の勇将として奮戦したため、謙信からその武功を賞賛されて安田長秀らと共に血染めの感状を頂戴している。永禄7年(1564年)の下野国佐野城攻撃でも功があり、謙信から感状を賜っている。以後2年間、佐野城将を務める。永禄12年1月10日(1569年2月7日)、本庄繁長の乱で繁長の居城・村上城を包囲中に繁長の夜襲に遭い討死。死因は病没ともいわれている。跡を子・顕長が継いだ。

色部長真 色部安長

 天文22年(1553年)、越後長尾氏(上杉氏)の重臣・色部勝長の子として生まれる。父の死後は兄・顕長が家督を継いだが、病弱だったため、天正4年(1576年)に兄が隠居し、代わって家督を譲られて色部氏の当主となり、上杉謙信に仕えた。
 天正6年(1578年)の謙信没後に起こった御館の乱では上杉景勝を支持して、上杉景虎方と戦った。その後は景勝の家臣として仕え、天正9年(1581年)に勃発した新発田重家の乱では、本庄繁長と共に重家対策を任された。重家の妹が長実に嫁いでおり重家は義兄にあたる。天正16年(1588年)には景勝の上洛に随行し、同道した直江兼続,須田満親と共に豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。
 天正18年(1590年)の仙北一揆においては、秀吉の命令を受けて出羽国平鹿郡大森城に在城し、大谷吉継と共にその鎮圧に功績を挙げた。天正20年(1592年)、秀吉の命令により朝鮮出兵が始まると、景勝に従って肥前国名護屋城に赴いたが、その途上に発病し帰国を許された。帰国後、京の伏見で療養していたが、再起の見込みが無いと分かると、8月17日(9月22日)に大石綱元と木戸元斎宛に自分の死後の色部家を直江兼続に頼むこと、兼続の次女を子・龍松丸(光長)の妻に迎えたいこと、自分の娘を兼続の養子にしてもらいたいことを希望する遺言状を残し、9月10日(10月15日)に病死した。享年40。家督は嫡子・光長が相続した。
 尚、長実は遺言状の中で直江兼続のことを「旦那」と呼んでいる。当時の兼続は30代前半であるが、既に上杉家中でも相当の権力者であり、長実が自身の後継者にあたる光長の後見役として兼続の存在を重要視していたことが遺言状から窺い知ることができる。
 豊臣秀吉は長実を「北国路、まれに見る武将」と評したと言われている。小笠原貞慶の門弟で、軍法,作法,馬術の免許相伝の書を持ち、薬剤,目薬の製造法に至るまで、極めて広範囲の学芸を学んでいた。
 新発田重家の乱の後、当時の色部氏の菩提寺であった長松寺に義兄の重家を埋葬して懇ろな供養を行い、重家の実弟・新発田盛喜や重家の重臣であった池端(高橋)鴨之助,猿橋和泉守らを召し抱えている。なお、盛喜はこのときから母方の姓の新保を名乗るようになり、盛喜の子孫(新保氏)は米沢藩に仕えた。
 仙北一揆の処理では、腹を切る覚悟で人質にとっていた武士達の妻子を解放し、そのことで土地民の信頼を得、帰国の際、かねて祈願をしていた保呂羽権現の御神体を預かり、平林に持ち帰って千眼寺保呂羽堂を建立した。仙北一揆の処理で出羽に赴いた際、道に迷ったところを雉子に助けられたことがあった。それ以来色部家中では雉子は大事にされるようになり、菩提寺の千眼寺には奉納された雉子の絵が現存し、色部氏が米沢で知行とした窪田地区では雉子を食べてはいけないと伝わる家もある。

 寛文4年(1664年)に上杉氏重臣で侍頭長尾景光(権四郎)の次男として米沢城下に生まれた。寛文6年7月3日(1666年8月3日)に重臣の色部清長が急死したため、清長の姉婿にあたる景光の子・安長が養子に選ばれ、幼くして色部家の家督を継いだ。
 延宝8年(1680年)4月に藩主・上杉綱憲が参勤交代で江戸へ行く際にお供して初めて江戸へ入る。以降、綱憲に供して江戸と米沢を毎年のように行き来した。天和元年12月5日(1682年1月13日)に侍頭となる。元禄12年1月6日(1699年2月5日)、上杉家江戸家老に就任し江戸在府となった。この時に妻子も米沢から江戸へ呼び寄せて、桜田の上杉家上屋敷に住ませている。江戸家老に就任した安長は窮迫する米沢藩財政の建て直しに苦心したが、特にその原因は藩主・綱憲の実父・吉良義央であった。浪費癖がある義央は、吉良家の普請や買掛金(商人への未払い金)をすべて上杉家に支払わせた上、毎年6000石もの援助を要求したためである。この負担の大きさは、江戸勘定方・須田右近が米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆くほどであった。
 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、吉良義央に遺恨のある赤穂浪士による吉良邸討ち入りが起きた際には、実父・景光の喪中のため上杉家に出仕しておらず、事件を知った翌15日に急遽出仕した。
 安長は、その後も長く江戸家老職にあったが、享保元年8月6日(1716年9月21日)に隠居が認められて米沢に帰国した。隠居料として10人扶持を与えられて寿残斎と号す。寛保元年7月30日(1741年9月9日)に死去。享年78。米沢の千眼寺に葬られた。

 

色部久長

 色部長門の名で知られている。戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町を警備するために総督に命じられ、奮戦し功績を残した。
 幼少より藩校興譲館に学び、助読となる。嘉永6年(1853年)に家督を相続し、安政6年(1859年)に侍頭兼江戸家老となる。元治元年(1864年)に奉行(国家老)となる。慶応元年(1865年)には、上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。
 慶応4年(1868年)5月上旬には新政府軍が続々越後に侵入、すでに高田は新政府軍で充満する状態になっていた。5月2日に小地谷談判が決裂し、長岡藩が奥羽越列藩同盟に加入し、新政府軍との北越戦争が始まった。米沢藩は藩内で徹宵の議論を経て、5月13日に色部を総督に、参謀・甘糟継成,大隊長・大井田修平以下600人が越後に出陣することになった。5月下旬に米沢藩軍務総督・千坂高雅が越後に来たため、藩主命令で軍事面の総督は千坂に交替し、色部は新潟港の警備を担当する総督となった。
 新潟港は正式開港場にはなっていなかったが、5月中旬頃から外国人の渡来が頻繁となり、スネル兄弟から同盟軍への武器弾薬供給ルートとなっていた。5月30日に新潟港を管理していた旧新潟奉行・田中廉太郎は新潟を預所の名目で米沢藩に引き渡し、米沢藩は会議所を置いて仙台・会津・庄内の各藩と共同で同盟軍の重要な補給港・新潟の管理にあたった。
 新潟港管理開始から約2ヶ月後の7月25日朝、突如として新潟沖に薩長連合軍の軍艦が現れる。そこに同盟軍側の新発田藩が突如、新政府軍に内通し、新発田藩が薩長連合軍の艦船上陸を先導して、米沢軍の本営を衝く。26日未明から薩長軍の新潟市街地への砲撃が始まり、爆音が炸裂した。同盟軍の内情を知る新発田藩の裏切りという圧倒的に不利な戦況のなか、29日夜明けから薩長軍の総攻撃が始まり、市街が火の海となった。色部はこの日に戦死するが、最期については異なる言い伝えがある。戦死した色部の首が部下が切り落とし、路傍の梨の木の根本に埋めたとも、念仏寺に持ち込まれたとも言われている。
 戦後、新政府は藩から4万石を召し上げ、一連の戦犯について調査を命じた結果、既に死亡した色部を戦犯として届け出る。 この届出については、米沢藩軍務総督・千坂高雅や参謀・甘糟継成を首謀人として届け出さずに済むよう、藩主・上杉茂憲や宮島誠一郎が首謀人は戦死した色部、一人だけで認めてもらえないか複数の政府要人に懇請したうえ、三条実美に委細が具申され、廟議で認められた。
 色部家は家名断絶となったため、子・康長は山浦氏名跡を相続する。明治16年(1883年)には色部家再興が許されたため、康長は長女に山浦氏を相続させ、自らが色部家を再興した。