H402:平 将常 | 平 高望 ― 平 将常 ― 色部為長 | H423:色部為長 | ● |
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色部長倫 | 色部昌長 |
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元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅びると、長倫は後醍醐天皇方に立って、合戦忠節を致すべきことを申し出て許されている。この行動は当時の武士階級全体がそうであったように、自己の所領を全うするためのものであった。 |
越後国の国人。岩船郡平林城主。永正4年(1507年)、越後守護代・長尾為景が上杉定実を擁立し、越後守護・上杉房能に対し反旗を翻すと(永正の乱)、昌長ら揚北衆の多くは守護方に味方した。為景により房能が自刃に追い込まれて以降も昌長は本庄時長,竹俣清綱らと共に抗戦を続けた。
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色部憲長 | 色部勝長 |
越後国の国人。岩船郡平林城主。永正の乱において守護を打倒し、越後を掌握した守護代・長尾為景であったが、その積極的な軍事行動のための負担を強いられた国人らは、次第に為景に不満を持ち始める。 |
勝長は長尾為景・晴景・景虎の三代に仕えた宿老である。始め天文2年(1533年)には上条の乱で本庄房長,黒川清実,中条藤資ら揚北衆の国人と共に為景の下から離れて上条定憲方に加わり、家督を晴景に譲って隠退させることで為景を引退に追いやった。その後、最後まで抵抗を続けたが、最終的に晴景に帰属し次第に乱は終息していった。 |
色部長真 | 色部安長 |
天文22年(1553年)、越後長尾氏(上杉氏)の重臣・色部勝長の子として生まれる。父の死後は兄・顕長が家督を継いだが、病弱だったため、天正4年(1576年)に兄が隠居し、代わって家督を譲られて色部氏の当主となり、上杉謙信に仕えた。 |
寛文4年(1664年)に上杉氏重臣で侍頭長尾景光(権四郎)の次男として米沢城下に生まれた。寛文6年7月3日(1666年8月3日)に重臣の色部清長が急死したため、清長の姉婿にあたる景光の子・安長が養子に選ばれ、幼くして色部家の家督を継いだ。
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色部久長 | |
色部長門の名で知られている。戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町を警備するために総督に命じられ、奮戦し功績を残した。 |