<桓武平氏>高望王系

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東郷重虎(島津忠仍) 東郷実友

 島津貴久の4男・家久の次男として誕生したが、天正5(1577年)2月3日に東郷重尚の養子となり東郷重虎と称した。
 天正8年(1580年)の水俣出陣の際、僅か7歳で実父・家久に付いて出陣している。天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、高城が落城すると忠仍は島津領に退去する。ただしこの時、義父・重尚がこの前後に病没しており、忠仍もまだ少年であったため、忠仍は父の領地である日向国佐土原に戻り、自領には家臣らのみで籠城している。
 文禄元年(1592年)、実兄の島津豊久に従い文禄・慶長の役に従軍し朝鮮に渡海、その際に島津義弘の命により東郷から島津に復姓、名を島津忠直と改めた(忠仍表記とした年代は不明)。しかし陣中で発病したために佐土原に戻った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄の豊久が戦死すると、豊久に嫡子が無かったため、慶長9年(1604年)忠仍にその遺領を継ぐよう命が下るが、病身を理由に自身の娘婿に喜入忠続の子・忠栄を迎えてこれを継がせ、自らは知行1,000石で大隅国三躰堂村に隠棲した。
 元和7年(1621年)に病死した。自らの跡目は嫡男の忠昌が継いだが、寛永9年(1632年)に島津姓を辞退する旨を上申し、翌年に受理されたため東郷に復姓した(東郷昌重と称する)。更に忠昌は樺山久尚の養子(樺山久広)となったため、次男の重経が跡目を継いだ。重経と忠仍の3男の重頼兄弟も東郷姓に復し、重頼の子である源四郎忠辰は本城氏を名乗った。

 実友は終始、方正勤直をもって聞こえた。また識見が有り、海外事情を注視して外国船の無礼を憤っていた。実友の詠んだ和歌に、「異国の船 くつかへせ 諸人の祈る 誠を知れよ神風」というのがあった。
 「鹿児島城下絵図散歩」では、現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町に東郷吉左衛門宅地があった。広さは267坪。なお、「聖将東郷全傅」では東郷吉左衛門宅についての記述あり。記述は以下のとおり。
 「四方竹垣を以って囲み、門は北側に、家屋は東西に延び、八畳三間、六畳四間、四畳二間、二畳二間、納戸、物置、臺所、土間等からなり、邸南北両隅には倉庫を建て、其の中央に厩及び下男室を設け、庭は北に偏り、松の木の側に氏神を祀った小祠を安置し、その西側に紅白二株の梅、手洗石を挟んで立っていた」
なお、東郷家の家屋は西南戦争で焼失したという。また、隣近所に伊東茂右衛門祐之が住んでいた。

東郷平八郎 東郷 実

 弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の3女・益子の4男として生まれる。14歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久3年(1862年)、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。
 明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリス官費留学は西郷隆盛により決定した。この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦「浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)にあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。
 帰国途上、西郷隆盛の自害を知り、その死を悼んだという。東郷の実兄である小倉壮九郎も西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。
 明治26年(1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こした。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。 女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。
 明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件),黄海海戦,威海衛海戦で活躍する。日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。
 しかし、日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、明治33年(1902年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。
 明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長,東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の同年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。
 壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。
 昭和9年(1934年)5月30日、喉頭癌,膀胱結石,神経痛,気管支炎の悪化のため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には参列のためにイギリス,アメリカ,フランスの各国海軍の儀礼艦が訪日し、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍の横浜入港は夕刻に、また中華民国練習艦隊は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、寧海の横浜入港は翌6日となった。当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した」と自国の海軍の父的人物に準えて哀悼した。

  東郷平八郎・てつ夫妻の2男として生まれる。学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官し「香取」乗組となる。
 1919年(大正8年)12月、「金剛」分隊長となり、「天龍」分隊長、「浦風」砲術長、「長門」「山城」「日向」の各分隊長などを経て、横須賀海兵団分隊長兼教官に就任。1925年(大正14年)12月、海軍少佐に昇進した。1927年(昭和2年)5月、「多摩」砲術長に転じ、海兵教官兼監事、「八雲」「榛名」の各運用長を歴任。1932年(昭和7年)12月、海軍中佐に進級し「間宮」副長に発令された。
 1933年(昭和8年)11月、「長鯨」副長に就任し、横須賀鎮守府付、「春日」副長、鎮海要港部参謀兼朝鮮総督府御用掛(嘱託),大本営附属海軍諜報機関勤務を経て、京城在勤武官となり、1938年(昭和13年)11月、海軍大佐に昇進。同年12月、横須賀鎮守府付に転じ、大湊要港部港務部長兼分隊長,舞鶴鎮守府付,第二港務部長,「室戸」特務艦長を経て、1941年(昭和16年)10月、「尻矢」特務艦長に就任し太平洋戦争を迎えた。
 1942年(昭和17年)3月、佐世保鎮守府付に転じ、福岡地方人事部長に異動。1943年(昭和18年)11月、海軍少将に進み横須賀鎮守府付となる。同月、軍令部出仕に移り、翌月、待命となり予備役編入。同時に充員召集され軍令部出仕兼海軍省出仕となる。1945年(昭和20年)8月、充員召集が解除された。

東郷良子
 侯爵の娘として育つが、19歳の時(1935年(昭和10年)2月末頃)に家出をする。家出の理由は、学校(女子学習院)への提出物が間に合わなかったからとも伝えられるが不明。半月後、浅草のカフェで女給として働いていたところを発見され、1935年(昭和10年)3月16日の東京日日新聞で報道されると帰宅を余儀なくされた。他の新聞も追随して報道したが、多くは国民的英雄の孫の「単なる若気の至り」として片づけ終息に向かった。しかし、國民新聞のみは、家出を華族の風紀の乱れと結びつけ、社会的制裁とばかりにデマを並べて執拗に報道を続けたことから、東郷良子は良家の子女としての立場を失った。