<桓武平氏>高望王系

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小幡顕高 小幡憲重

 国峯城城主。小幡氏は関東管領・山内上杉氏配下の国衆であり、諱の「顕」の字は山内上杉顕定からの偏諱とみられる。小幡氏の本来の所領は額部荘小幡郷であったが、所領が甘楽郡内にて拡大するにつれて新たな本拠地を求め、顕高とその子の憲重の代に要害の地である国峯城に移ったと考えられている。
 大永5年(1525年)に主君である山内上杉憲房が死去しその跡を養子の憲寛が継ぐと、山内上杉氏配下の国衆同士で対立が深まり関東享禄の内乱が勃発する。享禄2年(1529年)8月に憲寛が安中顕繁の榎下城を攻めると、顕高は西氏(西牧高田氏か?)と共に憲房の実子でわずか7歳の憲政を擁立して安中氏を支援した。敗れた憲寛は箕輪長野氏を頼り程田に移り、同4年(1531年)には上野を退去した。その結果、顕高らが擁立した憲政が関東管領職を継ぎ、山内上杉氏当主となった。
 『小幡歴代法名記録』によると、弘治3年(1557年)8月24日に没したという。これより以前の天文17年(1548年)において嫡子・憲重が武田氏に従属して山内上杉氏から離反する動きを示しており、同21年(1552年)には憲政は後北条氏に上野を追われて越後に逃れている。 

 小幡氏の主君である山内上杉氏は相模国の後北条氏との抗争で衰退すると長野氏との関係が悪化し、さらに一族の内紛が勃発する。このような状況下で、憲重は天文17年(1548年)10月に山内上杉氏から離反し、同年12月には上杉憲政の拠点・平井城を攻撃している。憲重の別名として「重定」が伝えられているが、これは山内上杉家に仕えていた当時の名から改名することで、同家を離反後に決別を示す意図があったとも考えられる。この頃から武田氏・後北条氏に通じていたようであり、同18年もしくは19年には同族である小幡三河守の武田氏への従属を仲介している。同19年(1550年)には後北条氏に通じ、それに伴い北条軍が平井城を攻撃した。同21年(1552年)3月の北条軍の侵攻により上杉憲政が本拠平井城・上野から没落し越後長尾氏を頼ると、憲重は後北条氏・武田氏に両属する立場となった。翌22年(1553年)9月には「小幡父子」が信濃塩田城に在陣する武田晴信(信玄)に出仕しており、これが憲重と嫡子・信実のことを指すと考えられている。
 永禄3年(1560年)8月末、上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が本格的な関東侵攻を行った(小田原城の戦い)。この際に小幡一族は鷹巣城の小幡三河守信尚,庶流の小幡道佐が上杉方に参陣していることが『関東幕注文』から確認でき、憲重の下でまとまって行動することができなかったようである。憲重は相婿で従兄弟でもある神成城主・小幡図書助の内通によって国峰城を追われ、武田氏を頼り南牧城に在城したという。
 翌4年(1561年)11月に武田氏は西上野侵攻を行い、憲重も図書助の子・景高を追放し国峰城を奪還し、旧領復帰に成功した。この年の12月には「尾張入道」と称していることからこれ以前には出家したようである。その後武田氏による西上野支配が進められていく中で後北条氏との両属関係は失われ、武田氏への従属を強めていった。川中島の戦いや三増峠の戦いなど参戦した。天正3年(1575年)5月、長篠の戦いに参戦し戦死したとされるが、はっきりしたことは分かっていない。
 その後、永禄10年(1567年)には嫡子・信実が史料上の初見としてみられ、この時点で家督は譲られているという。史料上の終見は天正8年(1580年)7月の武田勝頼からの書状であり、『小幡氏歴代法名記録』によると、織田信長による武田征伐で甲斐武田氏が滅亡した後の同11年(1583年)8月15日に死去したと推定される。妻の長野氏は、同17年(1589年)7月28日に死去。 

小幡信真 小幡信定

 天文22年(1553年)、信濃国塩田城にいた武田晴信に「小幡父子」が出仕し、これが憲重父子のことを指すと考えられている。その後、晴信から偏諱を得て元服し、信実を称した。
 永禄10年(1567年)8月1日に馬頭観音菩薩像を寄進しているのが当主としての史料上の初見であり、これ以前に父・憲重から家督を譲られたという。同年同月に提出された『下之郷起請文』では「右衛門尉信実」の名が確認され、単独で取次の原昌胤に提出している。『下之郷起請文』によると、信実が廿楽郡のほぼ全域を管轄していたと考えられている。
 信実は武田方として各地を転戦し、永禄12年(1569年)12月の駿河蒲原城攻略戦で弟・信高が戦死している。元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いでは先手を務め、弟・昌定が戦死した他に信実自身も負傷している。永禄12年(1569年)10月8日は三増峠の戦いに参戦している。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参陣した。この際に信真が戦死したという風聞(現地には墓がある)があったが、実際には戦後存命しており、武田勝頼から信真・昌高兄弟の負傷を案じる書状が確認されている。
 同6年(1578年)の御館の乱により武田氏と後北条氏が抗争関係になると、信真は北条領である秩父地方の日尾城攻略を目指し、同8年(1580年)6月に黒沢大学助,新八郎に小鹿野近辺で所領を与える約束をしている。
 天正10年(1582年)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、家老・森平策之進の献言を容れて、信長軍に降伏。『信長公記』によると、3月7日には上野に侵攻してきた織田勝長を通じて人質を提出し、従属を遂げている。その一方で同月10日、安中氏の所領である郷原に養子・信定(弟・信高の次男)が攻め込み、領土拡大を目論んだという。上野の有力国衆の中では最も早く織田氏に従属したとみられる。甲州征伐の仕置後は滝川一益の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が本能寺の変で横死、それを受け北条氏直が滝川一益を神流川の戦いで破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信真は氏直に降伏した。その後の天正壬午の乱では北条軍の先手として信濃に出兵した。
 その後は北条氏邦の指南を受け、後北条氏配下の他国衆としてその臣下となった。同14年(1586年)まで当主としての活動が確認され、その後、養子・信定に家督を譲ったとみられる。同17年(1589年)9月から信定による知行宛行状が発給されるようになる。翌18年(1590年)の小田原征伐では国峯城に籠城し、4月下旬頃には落城したとみられる。その後、武田氏時代を通じて親交があり、小田原征伐で攻城側でもあった真田昌幸を頼り、信濃塩田郷で余生を送った。天正20年(1592年)に死去。享年52。
 『甲陽軍鑑』によれば憲重と併せて500騎持ちで、これは武田家中でも最大である。また、信真の姉妹が武田信豊の室となり、信豊の娘が信真の甥・信氏(弟・信高の長男)の室となっており武田氏と二重の姻戚関係を築いていることから、譜代並の政治的地位を得ていたと考えられる。赤備えの部隊を率いた勇猛果敢な武将であり、信長公記中の長篠合戦の項に小幡勢について「馬上巧者」の記述がある。武田二十四将の一人として数えられる。

 永禄13年(1570年)3月17日付で武田信玄より小幡弁丸に父・信高の戦死の戦功を賞され知行・被官の相続を認められており、この「弁丸」が信定であると考えられている。天正7年(1579年)5月17日付で祖父・全賢より行儀などの意見書を与えられており、この時点で既に元服しており「平三」を名乗っている。諱のうち「信」は武田氏の偏諱を受けたものと考えられる。この際、同時に伯父・信真の養嗣子となったと考えられる。
 天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏が織田信長の甲州征伐により滅亡すると、小幡氏は同月7日には上野に侵攻してきた信長の子・勝長を通じて織田氏に従属している。その一方で、同月10日に信定は安中氏の所領・郷原に攻め込み、混乱に乗じて領土拡大を目論んだという。
 甲州征伐後は滝川一益の配下となるが、同年6月に本能寺の変が起きて信長も勝長も死去し、同月に神流川の戦いで滝川一益が北条氏直に敗れると後北条氏の幕下に入った。その後の小幡氏は北条氏邦の指南を受け、後北条氏の「他国衆」に位置付けられた。信定は同13年(1585年)4月、後北条氏より「右兵衛尉」の官途を与えられ、同17年(1589年)9月には養父・信真より家督を譲られ当主となったとみられる。
 天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が豊臣秀吉と戦争状態に突入すると、信定は一族を率いて小田原城に籠城した。小田原城の籠城戦は4月から行われたが、6月12日に織田信雄家臣・岡田利世から投降を促される書状が信定に送られている。一方で国元においては、信定の庶兄・彦三郎信氏が北陸道を侵攻してきた前田軍に投降し、信氏が先鋒となって国峯城を攻め、守備していた叔父・信秀が殺害されている。7月5日に小田原城が開城し、その後は徳川家康に身柄を委ねた。所領である上野国小幡は徳川家臣・奥平信昌に与えられ、信定は奥平氏に仕え知行1800俵を与えられている。その後暫くして加賀前田家に仕えたという。なお、庶兄・信氏や弟・囚獄も前田氏に仕えており、信氏が7000石、信定が1500石を与えられた。兄・信氏の方が知行高が高いのは、信氏の方が先に前田利長に仕えたことに関係していると推測されている。

小幡信氏 小畠盛次

 小幡信高の長男。妻は武田信玄の甥・信豊の娘であり、信豊は信真の姉妹を妻としていることから従兄妹同士の婚姻となる。弟の信定は伯父・信真の養子となり小幡氏当主となっている。小幡氏は武田氏滅亡後は、信長の家臣・滝川一益、次いで後北条氏配下となる。
 天正18年(1590年)の小田原征伐において、後北条氏が豊臣秀吉と手切れとなったことから後北条氏配下の国衆であった小幡氏も参陣を求められ、信定は一族を率いて小田原城に籠城した。信氏は国元に残り宮崎城を守備していたが、事前に織田信雄家臣・岡田利世を通じて上方に内通していたようであり、上方の北陸軍が侵攻すると降伏して前田軍に投降した。その後、小幡氏本拠の国峯城攻略の先兵となり、城を守備していた叔父・信秀夫妻を殺害したという。
 小田原征伐後は加賀前田家に仕え、7000石を与えられたという。

 甲斐武田氏の家臣。浪人衆・足軽大将。『寛永伝』によれば、日浄の出自である小畠氏(小幡氏)は、遠江国勝間田の出身であるという。『寛政重修諸家譜』によれば、日浄は日蓮宗に帰依していたという。
 『甲陽軍鑑』によれば、明応9年(1500年)に日浄は子息の虎盛とともに甲斐へ赴き、甲斐守護・武田信虎に仕官し、足軽大将に任じられたという。『甲陽軍鑑』によれば、日浄は子息の小畠虎盛が24歳の時に死去したとし、没年は永正11年(1514年)となる。命日は菩提寺である山梨県甲府市元紺屋町に所在する妙遠寺の過去帳から2月10日と判明する。

 

小畠虎盛 小幡昌盛

 武田の五名臣、武田二十四将の一人としてそれぞれ数えられる。なお小幡姓とするのは誤り(小幡氏は上野国の武家の名で、子の昌盛が信玄に許されて名乗ったもの。なお、虎盛は上野小幡氏の遠縁とする系図もある)。 娘婿に市川等長(梅隠斎)の子・平右衛門、原与左衛門尉。
 元々は遠江国の出身で、父親が武田信虎に仕官したのに伴い1500年(明応9年)に甲斐国に入る。1514年(永正11年)に父が今井信是の叛乱鎮圧に出陣して討死すると24歳で家督を継いだ。信虎麾下の足軽大将として甲斐国統一戦や今川氏,後北条氏との戦いで活躍。大永元年に今川氏配下の福島正成が甲斐に攻め込んできた際には、原虎胤と共に先鋒として迎撃の最前線を担ったとされる。それら今川,北条氏との戦功から信虎の偏諱を受けて「虎」の一字を貰い、虎盛と名乗って、その武勇から「鬼虎」と称された。
 1541年(天文10年)、信虎追放後は信玄に従って活躍、1551年(天文20年)に信玄が入道すると原虎胤や真田幸隆らとともに剃髪して日意と号す。永禄年間には高坂昌信の副将として海津城に入り対上杉氏の抑えとして活躍、1561年(永禄4年)6月に病死。享年71。遺言の「よくみのほどをしれ」は有名。生涯で36回の合戦に参加して貰った感状も36枚、41ヶ所の傷を受けた歴戦の勇将である。 

 武田二十四将の一人に数えられる。小幡氏は遠江国勝間田出身の一族で、父の虎盛は北信地域をめぐる越後の上杉謙信との対決において前線の海津城に在番し、春日虎綱を補佐したという。『甲陽軍鑑』に拠れば、昌盛は虎盛とともに海津城に在番し、父の虎盛は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い直前に死去したため家督を継ぎ、引き続き春日虎綱の補佐を命じられたという。
 『軍鑑』では永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおける活躍や、内藤昌秀の配下として西上野の総横目を務めたことなどを記しているほか、「鬼の子には鬼の娘が相応しい」との信玄の計らいで、足軽大将・原虎胤の娘を正室としたという。
 また、虎盛没後は海津城副将の地位に推されるが昌盛は信玄の旗本におさまることを望み訴訟を行い、信玄の怒りを買い甲府妙音寺に蟄居となり切腹を命じられるが、諏訪勝頼や土屋昌続の懇願により赦免され、足軽大将に留まったとする逸話を記している。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、昌盛は検使として信玄の弟・一条信龍の部隊に所属。
 天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍が武田領に侵攻する(甲州征伐)が、昌盛は病床にあったため参戦できなかったという。武田氏の敗勢が濃厚になりつつあった時、落ち延びゆく勝頼に甲斐善光寺で暇乞いをしたのち病死したという。享年49。勝頼の自害のわずか5日前であった。
 なお、『甲陽軍鑑』に記載されている、勝頼への暇乞いの記述内容から昌盛の病名・死因を地方病(日本住血吸虫症)であるとする解釈もあり、これは少なくとも『甲陽軍鑑』の成立した近世初頭段階で、甲斐国に地方病が蔓延していた可能性を示す記録としても注目されている。 

小幡景憲 小幡光盛

 1572年(元亀3年)、甲斐武田氏の家臣で足軽大将・小幡昌盛の3男として誕生。『甲陽軍鑑』によれば、父・昌盛は信濃海津城主・春日虎綱を補佐して在城し、後に武田信玄の旗本に転じ、海津在番の後任は叔父の小幡光盛が務めたという。父の昌盛は1582年(天正10年)3月の織田信長による武田征伐の際、武田勝頼の滅亡のわずか5日前に病死し、叔父の光盛も武田氏滅亡後は越後上杉氏に臣従している。景憲は他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕えたが、1595年(文禄4年)に突如として徳川秀忠のもとを出奔して諸国を流浪したという。
 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川氏の家臣・井伊直政に属して戦功を挙げたといわれ、1614年(慶長19年)の大坂の陣では豊臣氏に与したが、内実は徳川氏に内通しており、江戸幕府京都所司代の板倉勝重に連絡していたという。戦後は再び徳川氏に仕えて1500石を領した。のち、横田尹松の末子・縄松を養子とした。
 景憲は甲州流軍学の創始者として名高く、幾多の武士に教授したとされる。特に北条氏長,近藤正純,富永勝由,梶定良は小幡の高弟として名高く「小幡門四哲同学」などと呼ばれている。剣術にも優れて小野忠明から皆伝を受けている。
 江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』は、春日虎綱の甥・春日惣次郎が書き残した口述を小幡光盛の子孫と考えられる小幡下野守が入手し原本が成立したと考えられているが、景憲は小幡家伝来の原本を入手し成立に携わったという。

 通称は弥左衛門尉,山城守、晩年には下野守を称している。諱は光盛だが、他に貞長,虎昌,昌虎ともいう。
 父の日浄は遠江国勝間田の出身で、明応9年(1500年)に日浄は虎盛とともに甲斐国へ赴き、甲斐守護・武田信虎に仕えた。日浄は永正11年(1514年)に死去している。『甲陽軍鑑』によれば、兄の虎盛は永禄4年(1561年)に信濃国海津城の城代である春日虎綱の副将として補佐し、海津城の二の丸に配置された。同年に虎盛が死去すると、虎盛の子息である小幡昌盛が跡を継ぐが、昌盛は信玄の旗本であることを望んだため、光盛が虎盛の遺領・同心を継承して海津城番を務めた。
 天正10年(1582年)3月、織田信長の武田征伐により武田勝頼が自害し、甲斐武田家が滅亡すると、信長から派遣されてきた織田家臣・森長可の傘下に入るが、同年6月の本能寺の変による信長没後は越後の上杉景勝を頼った。当初は信濃国飯山城に配されたが、後に越後に移ったといわれ、その後の事績は不明。天正年間には光盛とともに「小幡下野守」が登場し、光盛の実子であると考えられている。