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天正19年(1591年)5月、永井直勝の次男として相模で生まれる。徳川秀忠に仕えて御小姓,御書院番となり、慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参加し、同年に530石の知行を与えられている。 寛永9年(1632年)11月18日、日向守に叙任。数度の加増を経て、寛永10年(1633年)3月25日、2万石を与えられて山城長岡藩主となる。慶安2年(1649年)7月4日には1万6,000石を加増されて合計3万6,000石の大名となる。このとき、領地も長岡から摂津高槻に加増移封された。兄の尚政と同様に有能かつ京都周辺の領地を支配したため、京都所司代代理・大坂城代代理を歴任し、禁裏造営の奉行や大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任は厚かった。藩政においても、城下町の整備や拡大、治水工事に努めて実高6,000石を増加させるなど、藩政の基礎を固めた。 寛永12年(1635年)に嫡男の直吉を廃嫡し、寛文11年(1671年)1月9日に直清が死去した後は、直吉の長男の直時が跡を継いだ。享年81。
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文政10年(1827年)6月29日、第10代藩主・永井直与の次男として生まれる。天保6年(1835年)閏7月9日、兄の直寛が早世したために嫡子となる。天保13年(1842年)11月18日、直与の隠居により家督を相続した。幕領3万2309石を預かった。 同年12月16日に従五位下遠江守に叙任する。後に飛騨守に転任する。嘉永元年(1848年)12月7日、京都火消役を命じられる。安政元年(1854年)2月10日、京都火消役を命じられる。 財政再建を目指して藩政改革を行うが、江戸藩邸の焼失、安政の大地震、大風雨などによる藩の大被害などで失敗に終わった。嘉永6年(1853年)、ペリー来航の際には、鎖国体制下でのオランダとの通商関係の強化を幕府に提言している。 文久元年(1861年)9月25日、隠居して養子の直矢に家督を譲った。明治7年(1874年)6月1日に死去した。享年48。
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