<桓武平氏>高望王系

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北条時盛 北条時親

 承久3年(1221年)の承久の乱では父・時房に従って東海道から西上し、6月15日に上洛した。貞応元年(1222年)8月28日に掃部権助に任じられる。
 貞応3年(1224年)、時房が連署に就任して鎌倉に帰還すると、その跡目を継ぎ六波羅探題南方に就任し、6月29日に鎌倉を出発する。北方の北条時氏,北条重時と協力して洛中の治安維持・統括を担当した。六波羅探題在任中、丹波の守護を担当していた時期もあった。嘉禎2年(1236年)7月20日に従五位下越後守に叙任される。
 仁治元年(1240年)1月24日に時房が没すると下向し、1月29日に鎌倉に戻るが、7月9日に再び上洛した。時盛は鎌倉に留まり執権に伺候することを幕府に上申したが受諾されなかったという。背景には、弟の北条朝直との間に時房流北条氏の惣領権を巡る軋轢があった。時盛とその一族達は、弟・朝直の一族(大仏流)との政争に敗れ、そのため政治の表舞台から脱落したと考えられている。
 仁治3年(1242年)5月12日に六波羅探題南方を解任されて鎌倉に戻り、6月に突如出家して勝円と号し、その後は幕政から距離を置き、幕政に一切関らなかった。時盛の息子も同様に幕政の中枢から遠ざかっている。建治元年(1275年)12月12日、79歳で孫の北条時国が六波羅探題南方に就任する際に随行して上洛し、2年後の建治3年(1277年)5月2日に六波羅で没した。享年81。
 九条頼経,頼嗣,宗尊親王ら京都から招聘した将軍が更迭され、上洛する際、時盛の屋敷が中継地として使われている。時盛の家系は佐介流北条氏として続いたが、時盛の逼塞や後の時国や北条時光の失脚、朝直を祖とする大仏流北条氏の隆盛によって凋落し、他の流派の風下に置かれることとなった。

 佐介時親とも。時親からみて叔父にあたる北条朝直の子にも時親という名の人物がおり、いくつかの系図においてはその時親と事績が混同されていることがある。
 『吾妻鏡』で確認できる時親の活動は、1245年(寛元3年)から1266年(文永3年)までである。尊卑分脈,続群書類従所収の「北条系図」に続古今和歌集に歌が入選していると記されていることと、和歌,蹴鞠,管弦など「一芸に秀でた者達」が選任される昼番衆という役目に時親が選ばれたことが『吾妻鏡』にあることから、文芸にも長じていたことが推定される。
 父・時盛は、六波羅探題南方を長年勤め、後年上洛して京都で晩年を送り、また藤原頼経や宗尊親王ら宮将軍が更迭されて帰洛する際、時盛の館に中継地として立ち寄るなど、京都との関係が深く、そのため息子である時親も京邑やそこの人々と関係が深かったと類推されている。

北条時治

 播磨国美嚢郡淡河庄を領したことから淡河時治とも呼ばれる。越前国大野郡牛原の地頭でもあった。
 元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱の際、北条高時の命を受けて江馬時見とともに北陸7ヶ国の軍を率いて上洛している。その後、自身が地頭を務める越前国大野郡牛原で北国の反幕府勢力に対処していた。
 元弘3年/正慶2年(1333年)5月7日、足利高氏が京の六波羅探題を陥落させ、それが越前に伝わると、時治に味方する兵が離れ、平泉寺の衆徒らが北条氏の領国を恩賞に得るため、自国や他国の軍勢らと相談し、七千余騎で襲い掛かってきた。5月12日昼、ついにその軍勢が牛原まで押し寄せてくると、わずかな家来と防戦した(牛原の戦い)。だが、時治は観念し、妻や5歳と6歳の2人の子供を入水させたのち、彼自身も自害し果てた。