<桓武平氏>高望王系

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杉原家次 杉原長房

 尾張国の生まれ。秀吉の正室・寧々(高台院)の叔父に当たる。その縁のため、早くから秀吉の家老として仕えた。中国大返しの際は、備中高松城代となった。天正10年(1582年)の山崎の戦い後、秀吉から丹波国福知山城主に任じられた。翌年の賤ヶ岳の戦い後には3万2000石の知行を与えられ、さらに京都所司代にも任じられた。
 天正12年(1584年)に死去。享年55。その晩年は『多聞院日記』に寄れば、天正11年(1583年)頃より精神を病み、狂ったような様子であったという。跡を子の長房が継いだ。 

 天正2年(1574年)、羽柴秀吉の家臣・杉原家次の長男として生まれる。天正12年(1584年)、父・家次の死去により家督を継いで秀吉に仕え、近江国坂本城主となる。
 天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣する。文禄5年(1596年)、秀吉の命により坂本から豊後国木付城へ移封された。慶長3年(1598年)には但馬国豊岡城へ移封された。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して細川幽斎が守る丹後田辺城を攻めたが(田辺城の戦い)、正室が浅野長政の娘であり、高台院(北政所)の従兄弟にも当たるという縁戚関係から戦後は所領を安堵された。寛永6年(1629年)、56歳で死去し、跡を長男の重長が継いだ。 

杉原重玄 杉原ふく

 寛永14年(1637年)、交代寄合・竹中重常(竹中重門の長男)の3男として生まれる。母方の伯父にあたる先代藩主・杉原重長が正保元年(1644年)10月28日に死去した後、所領を1万石に減らされた上で、正保2年(1645年)閏5月26日に末期養子となり、家督を継いだ。末期養子が解禁されていなかった時期であったが、長房・重長の2代における忠勤が考慮されて重玄の家督相続が認められた。藩主就任後の正保4年(1647年)、江戸城石垣普請助役を勤める。
 承応2年(1653年)10月14日に死去した。享年17。嗣子が無かったため杉原氏は断絶し、改易されて豊岡は天領となった。この時、豊岡城も廃城とされた。養父・重長の従祖父の義正(杉原家次の弟)が始祖の庶流が旗本として、家名は存続している。 

 長勝との間に子はいないが、朝日殿の子である寧々,長生院,浅野長政を養子とした。寧々と木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の結婚の際は、姉が反対したが、長勝とともに賛成した。これにより浅野家は出世するようになる。
 天正3年(1575年)の長勝の死後も生きており、文禄3年(1594年)の大坂城二の丸にて能の興行でも姉・朝日殿とともにわた五十把をもらっている。慶長8年(1603年)4月17日には養女・高台院が、豊国神社にて七曲殿の病平癒祈祷をしている。翌日に死去。位牌・肖像画が高台寺にある。 

杉原こひ 杉原くま

 朝日殿という名は尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)からそう呼ばれた。
 杉原定利に嫁ぎ木下家定,くま,寧々,ややをもうける。寧々とややは、すぐに妹の七曲殿とその夫・浅野長勝の養女とした。
 永禄4年(1561年)に寧々が秀吉と結婚。しかし朝日殿は秀吉との婚姻を、周囲の反対にもかかわらず、密かに結ばれた野合であるとして、この婚姻を生涯認めることはなかった。
 慶長3年(1598年)8月11日死去。秀吉の死の7日前であった。墓所は大分県速見郡日出町康徳山松屋寺。松屋寺には肖像画もある。 

 長慶院。生年は不詳だが、兄の家定が生れたのが天文12年(1543年)なので、それ以降の生まれと考えられる。また妹の高台院の生年には諸説あるもののその下限が天文18年(1549年)と考えられるため、くまの生年は1540年代半ばの辺りと推測される。医者の三折全成に嫁いだ。
 慶長5年(1600年)に、開祖を東漸宗震として妙心寺に塔頭の長慶院を創建した。妹の高台院の帰依も受けていた。寛永元年(1624年)8月に、豊国廟の社僧・梵舜のもとに高台院とともに祈祷の礼を届けたことが文献に見える最後の記述で、同月死去。妙心寺に肖像画や遺品が残る。高台院もこの1ヶ月後に死去している。