<桓武平氏>高望王系

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関 盛政 神戸具盛

 北条氏滅亡後、元弘3年(1333年)に関東から関谷に移り住み、関一党の基礎を築いた。 延元2年(1337年)、陸奥にあった北畠顕家が義良親王を奉じて西上したとき、これに従い、伊勢では北朝方の有力豪族長野氏や雲出川に構えた高師泰の軍と戦ったという。
 盛政には5人の子があり、正平22年(1367年)に領内を5人に分家させた。長男・盛澄を神戸に、2男・盛門を国府城に、3男・盛繁に本家を継がせ亀山城に、4男・盛宗を鹿伏兎城に、5男・政実を峯城に、それぞれ配して勢力を伸ばした。 

 神戸氏は関氏の一族であるが、早くから北畠家の影響下に置かれていた。神戸為盛は北畠家から妻を迎えていたが、男子に恵まれていないままであった。具盛は京都相国寺に侍童として仕えていたが、神戸氏への影響力の強化を望む父に呼び戻され、為盛の養子に入り、家督を継いで当主となると澤城(神戸西城)主となる。のちに神戸城を築城して拠点を移した。
 生家の北畠家の力を背景に、伊勢楠木氏(楠木正忠の嫡子・楠木正具)や赤堀氏に娘を嫁がせ、北伊勢を中心に神戸氏の勢力を拡大させた。子の第5代・長盛,孫の第6代・利盛の時代には、神戸氏は北伊勢を代表する勢力の一つとして関氏や長野氏と並び称される勢力になったという。 

神戸友盛(具盛) 神戸信孝

 次男であったため仏門に入っていたが、永禄2年(1559年)に兄・利盛が23歳の若さで急逝したため、還俗して家督を継ぐ。それまで神戸氏は、祖父の実家である北畠氏に属しており、父の長盛や兄の利盛は勢力拡大のため北伊勢や南近江にたびたび出征しており、元々の本家筋に当たる関氏や南近江の六角氏とは不和になっていた。具盛は当主となるとすぐに関氏当主・関盛信との関係を修復し、さらに盛信と共に六角氏重臣の日野城主・蒲生定秀の娘を娶り、その力を背景にしつつ戦争で疲弊した神戸氏の勢力の回復を図った。
 前代までの拡張政策の反動から、具盛の家督継承直後から神戸氏は近隣勢力の侵攻に何度も遭ったがよく戦った。北伊勢の雄の一家である長野氏が神戸氏の盟友である赤堀氏(浜田氏)と合戦を起こすと(浜田合戦)、具盛は赤堀氏を支援し自ら援軍を率いて武名を上げた。
 永禄10年(1567年)、尾張国の織田信長による北伊勢侵攻が開始されると、具盛は重臣の山路弾正忠(山路正国や長尾一勝の兄)らとよく防ぎ、美濃国に不穏な動きのある織田軍を撤退させた。しかし永禄11年(1568年)再度、信長軍が侵攻してくると、抗戦の利あらずとして信長の3男・信孝を養子として迎えることで和睦した。その後、織田家の部将として転戦し、六角氏攻略の際(観音寺城の戦い)には、義兄である蒲生賢秀を降伏させるなど、手柄を立てる。
 しかし養子である信孝を冷遇していたため信長の怒りを買い、元亀2年(1571年)1月、具盛は蒲生賢秀に預けられ、近江国日野城に幽閉を余儀なくされた。神戸氏の家督は信孝が継承した。そしてそれに抗議した山路弾正忠をはじめ、一族や家臣の多くは殺害された。
 天正10年(1582年)、信孝が四国征伐の総大将として大坂へ出征すると、具盛は許されて神戸城近くの澤城を隠居所とした。天正11年(1583年)、羽柴秀吉により信孝が切腹させられると、織田信雄の家老である林与五郎が神戸城主となった。具盛は与五郎の嫡子・十蔵に信孝の室(具盛の娘)を嫁がせ、神戸氏を継承させた。その後、神戸与五郎らが蒲生氏郷らの羽柴軍に敗れ美濃へ落ち延びると、具盛は織田信包を頼り安濃津に逃れ、同地で死去したといわれる。

 

 永禄元年(1558年)、織田信長の3男として生まれた。実は次兄・信雄より20日先に生まれたが、母の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、3男とされたと言うのが通説。生まれた場所は母方の大叔父と言われる尾張衆(津島衆)の岡本良勝の屋敷とされている。
 永禄11年(1568年)、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城城主・神戸具盛の養子となり、具盛が信長によって隠居させられた後の元亀3年(1572年)に神戸氏を継ぐ。相続後は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座,伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。
 元亀3年(1572年)1月、兄の信忠,信雄と共に岐阜城において元服し、加冠役は柴田勝家が務めた。
 天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけて、長島一向一揆平定戦、越前一向一揆平定戦に参加する。伊勢長島での戦には北畠信雄とともに参陣、大崎城を攻撃した。天正4年(1576年)の三瀬の変、天正5年(1577年)の紀州征伐にも参加し、同年11月、従五位下・侍従に叙位・任官。天正6年(1578年)には荒木村重討伐戦(有岡城の戦い)にも出陣している。
 行政官としての活動もあり、天正8年(1580年)には村井貞勝を補佐して在京し禁裏との交渉にあたった。同年7月、本願寺教如が退去するに際して誓詞を交わすため、信長を京に迎えている。この頃に丹波国・丹後国を所領として与えられたようであり丹波衆・丹後衆に出した中国攻めの触書が存在する。同時に伊勢では神戸城の拡張工事に着手、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭を完成させた。甲斐武田氏との戦いにおいても、木曾義昌が武田勝頼から離反するに際して仲介を行うなどの活躍をしている。
 天正10年(1582年)に四国攻めの総司令官に任ぜられ、5月11日から大坂で出撃準備をする。所領北伊勢の河曲・鈴鹿の二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も集めて遠征軍を組織した。副将には織田氏の宿老・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付された。なお、四国攻めにあたって、信孝は三好康長の養子になることが決定され、神戸具盛は再度神戸氏の当主扱いになったようである。しかし、養子の話は破談となり、この際に織田氏に復して新たに一家を興した。
 堺にて渡海の準備中である6月2日に本能寺の変が勃発した。その後、摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦。仇である明智光秀を撃破した。信長の弔い合戦の総大将であったにもかかわらず、清洲会議において織田氏の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役として兄・信忠の領地であった美濃国を与えられ、岐阜城の城主となる。
 その後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介した。12月、秀吉は突如として信孝に対して挙兵し岐阜城を囲んだ。信孝は降伏せざるを得ず、三法師を秀吉に引き渡した上、母と娘らを人質として提出させられた。
 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。
 信孝は尾張国知多郡野間の大御堂寺(野間大坊)に送られ、自害させられた。切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと,床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけたといわれている。その血の跡は今なお掛け軸に残っている(自害の際の短刀と共に非公開)。享年26。首は神戸城では受け取りを拒否され、検視の大塚俄左衛門が伊勢関町の福蔵寺に持ち帰った。寺では首塚を作り手厚く弔った。太田牛一は大野の海音寺で信孝の葬儀を営み、信孝の木像を彫り信孝を偲んだという。現在、信孝の墓は安養院にある。ここは昔、大御堂寺の一部であった。

神戸信章 神戸良政
 神戸三郎右衛門と称した。上野で浪人していたが、新田開発に熱意を傾ける越後の豪商・宮嶋作右衛門によって平石彦左衛門,茂田七右衛門らとともに招聘され、高田藩主・松平光長に仕官し大瀁新田開発に功績をあげた。同地の地名を命名したと伝わる。娘ないし一族の女が平石彦左衛門の妻となっている。友信の弟で養子とする系譜がある。   紀州徳川家に仕えて後に『勢州軍記』『伊勢軍記』等を著作した。神戸良政が地元の老人に聞き込みを行った上で編纂した、比較的信頼性が高い資料とされる。『勢州軍記』の序章に伊勢国の諸家に関する記載があり、関一党については、祖となった実忠、その弟の三郎左衛門尉盛綱のことが記されている。