村上源氏

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源 雅頼 源 兼定

 猪熊源中納言と呼ばれた。長承2年(1133年)7歳で従五位下に叙爵。長承4年(1135年)治部大輔に任ぜられる。以降も順調に昇進し、長寛2年(1164年)34歳で参議に任ぜられて公卿に列す。永万元年(1165年)に入って左大弁・勘解由長官を兼帯している。仁安4年12月(1170年1月)権中納言に任ぜられる。治承3年(1179年)治承三年の政変の1日後である11月18日に権中納言を辞しているが、解官されたかどうかは不明。治承5年(1181年)従二位に叙せられ、寿永2年(1183年)正二位に至った。源頼朝の近習である中原親能が雅頼の家人で、その妻が次男・兼忠の乳母であったため、治承4年(1180年)に頼朝が蜂起した後は頼朝の意思の伝達者として、京と鎌倉、特に九条兼実との間の仲介をした。治承4年12月6日、親能逮捕のため雅頼の邸宅が平家によって家宅捜索されたりしたのはこうした事情によると思われる。文治3年(1187年)、妻の病により出家し、建久元年(1190年)8月3日、薨去。享年64。
 自宅は三条猪熊東にあったが、安元の大火(1177年)で罹災した。博学で知られ有職故実に詳しく、廟堂にあっては朝儀全般について意見を求められることが多かった。福原遷都の際でも新京に建設される皇居の設計を担当し、造宮にも当たっていたらしい。保元の乱の際には新蔵人として後白河天皇側にあって、克明な戦況日記を記していたらしいが、該当記事のある『雅頼記』は現存しない。
 有職故実に通じて、多くの文書・日記類を所蔵。『水鏡』の作者にも擬せられている。摂関家の藤原忠通・兼実父子と親交が深く、密接な繋がりがあった。承安3年(1173年)には、兼実と朝議の有職についてを論じている。また、和歌にも長じ、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に7首が入集する。

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。母は中納言藤原家重(家成)女。権中納言・持明院基家の娘を妻にしていたが、その後離別した。壬生中納言と号した。
 大和守,近江守,右中弁,左中弁,蔵人頭などを歴任した。文治元年(1185年)、一時西海に没した神鏡,神璽が都に到着した折には、迎えの一員となった。文治4年(1188年)参議になり、建久4年(1193年)従三位に叙せられた。後鳥羽天皇及び土御門天皇の時、大嘗会国司を務めた。晩年いくつかの奇行を見せ、発狂したと言われる。 

源 雅具

 白河院,鳥羽院からの信頼が厚かった源雅兼の子孫である。雅兼,雅頼,兼忠といずれも権中納言に至った。雅具も最終的には権中納言に至り家門を維持できたのであるが、父祖たちとは異なり、前半生はかなり不遇であった。
 承元3年(1209年)1月13日、侍従に任ぜられる。建暦2年(1212年)11月11日、承明門院の御給により、正五位下に昇叙。承久2年(1220年)1月22日、左少将に任ぜられる。承久3年(1221年)1月13日、出雲介を兼ねる。同日、従四位下に昇叙。
 同年閏10月、承久の乱により土佐国に配流となった土御門院に同行する。その後の動向は定かでないが、寛喜3年(1231年)の土御門院崩御後、文暦2年/嘉禎元年(1235年)頃には中原師員の婿となり、勢いを得ていたという。
 嘉禎3年(1237年)1月24日、従四位上に昇叙。暦仁2年(1239年)1月24日、治部卿に任ぜられる。仁治元年(1241年)11月12日、嘉陽門院の御給により正四位下に昇叙。仁治3年(1242年)6月16日、復任。寛元3年(1245年)6月26日、62歳にして蔵人頭に補せられる。治部卿が蔵人頭に補せられることは極めて珍しかった。同年10月29日、従三位に叙せられる。治部卿は元の如し。寛元4年(1246年)2月23日、加賀権守を兼ねる。宝治2年(1248年)11月2日、治部卿から大蔵卿に遷る。
 建長2年(1250年)1月13日、参議に任ぜられる。建長3年(1251年)1月22日、遠江権守を兼ねる。建長4年(1252年)12月4日、権中納言に任ぜられる。建長5年(1253年)4月8日、従二位に昇叙。建長6年(1254年)1月13日、権中納言を辞し、代わりに息男右少将雅言を右少弁に挙任する。正嘉元年(1257年)閏3月27日、正二位に昇叙。同年8月21日、出家。法名は蓮円。子に大納言に至った雅言、左少将に至った親頼がいる。