村上源氏

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木造俊康 木造教康

 叔父・顕泰の養子として在京出仕したが、反幕行動をとる満雅とは袂を分ち、帰家して木造家を継いだ。初名は俊泰。
 南北朝合一後、程なく伊勢国司北畠顕泰の養子として在京出仕し、応永2年(1395年)叙爵されて侍従に任じられたという。同10年(1403年)8月参議・左近衛中将に任じられて公卿に列し、同11年(1404年)に3月土佐権守を兼ねる。同12年(1405年)1月従三位、3月権中納言に叙任され、さらに同14年(1407年)1月正三位、同18年(1411年)1月従二位と順調に累進した。
 同21年(1414年)、将軍・足利義持によって木造庄一円知行が本家の北畠家の本流である久我家に安堵された際、その権益を放棄する旨の避状を提出しているから、これより前に木造家を相続したとみられる。
 同22年(1415年)春、伊勢で挙兵した国司・北畠満雅により居城坂内城が攻略されると、土岐持益,仁木満長ら幕府軍に与して伊勢に侵攻し、木造城の雅俊を敗走させたので、これに替わって入城し、以後は木造城を居城とした。
 同23年(1416年)11月、権大納言に任じられ、同24年(1417年)1月正二位に叙されたが、同27年(1420年)3月に辞職して出家。翌応永28年(1421年)春より京都で流行した疫病に罹患し、4月26日に薨去した。 

 北畠満雅が挙兵した際には祖父・木造俊康は幕府方として戦ったため、木造氏は北畠氏を上回る官位に昇るようになり、木造教親も享徳元年(1452年)参議として公卿に列すと、長禄2年(1458年)権中納言、寛正6年(1465年)従二位に叙任されている。
 応仁元年(1467年)、畠山氏・斯波氏の家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。8代将軍・足利義政の弟・足利義視は、当初は東軍に属し6月には西軍追討の総大将となったが、その後、室町殿から今出川殿に戻され、更に細川勝元の態度から、身辺に不安を感じるようになっていた。
 同年8月23日に足利義視は中立であった北畠家を頼るため、教親の陣所の中山殿に入り、教親に警護されて武者小路を東へ向かい、蛸薬師の辻を一条へ向かった。釘貫門は東軍の富樫政親の兵が守っていたが、教親が「三条内府が病気で東山に居り、今出川殿(足利義視)が見舞いに参るのである。開門せよ」と言った。しかし、富樫は不審がって開けず「鍵が無い」と答えたため、教親は予てより用意しておいた合鍵で開門した。足利義視は近江坂本の石川次郎の館に入り、義姉の日野富子がお忍びで坂本に来たのでお暇乞いを行い、伊賀を抜けて伊勢に入り、翌9月6日に北畠教具に迎えられた。
 応仁2年(1468年)10月2日または12月2日に伊勢国にて薨去。享年45。 

木造政宗 木造具政

 文明12年(1480年)従五位下に叙爵し、侍従に任ぜられる。初めは木造城に拠っていたが、明応5年(1496年)に川北城を築城して弟の康親にこれを守らせた。翌明応6年(1497年)には娘婿・木造師茂を擁護したことから北畠材親の攻撃を受けるが、師茂が自刃したことにより事なきを得た。 しかし、材親方との対立は続き、文亀3年(1503年)に木造城が落城し、翌文亀4年(1504年)に材親方と和睦した。政宗は木造城を喪失した後も戸木城に移り支配領域や家中を保持した。
 文亀元年(1501年)、正四位下・参議に叙任され公卿に列すが、文亀4年(1504年)には参議を辞して出家し、法名は宗威と名乗る。家督は長男の俊茂が継いだ。

 享禄3年(1530年)、伊勢国司を務めた北畠家の第7代当主・北畠晴具の3男(次男とも)として生まれるが、父・晴具の命で木造具康の跡を継いで分家の木造家の当主となる。
 天文13年(1544年)従五位下に叙爵し侍従に任ぜられる。天文21年(1552年)正五位下・左近衛少将に叙任され、天文22年(1553年)従四位下・左近衛中将に至る。天文23年(1554年)には戸木城を築城している。
 永禄12年(1569年)5月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄・具教に背いて信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男・織田信雄の家老となる。信長没後も信雄に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは戸木城に籠城して羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結ぶと、城から退去した。

木造長政

 織田氏の家臣であった木造具政の子として生まれた。はじめ伊勢の織田信雄に仕えた。天正2年(1574年)7月に侍大将として水軍を率いて伊勢長島攻めに従軍した。天正12年(1584年)に主君の信雄に討たれた信雄家老の津川義冬の家臣団が松ヶ島城に籠城した際には、これを攻めている。
 信雄は同年の小牧・長久手の戦いの政略により、天下人となりつつあった豊臣秀吉と和睦した。この主家の動向後、長政は居城の戸木城を廃城とし、天正14年(1586年)に田辺城を築いて新たな居城とした。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐ののち、信雄は秀吉からの尾張・伊勢から東海地方への転封命令を拒んで領地を没収され、関東にて蟄居させられた。長政は秀吉に召しだされたのち、信雄の甥で織田家の当主と看做されていた織田秀信の家老として配され、2万5千石の知行を得た。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、美濃国岐阜を居城としていた秀信に徳川家康の東軍に与するように進言するが、これは容れられず秀信は西軍に与した。織田方は米野の戦いや岐阜城籠城戦などで、美濃国に侵出してきた東軍の福島正則や池田輝政らと戦った。長政親子も米野の戦いでは1千兵を率い、籠城戦では七曲口を預かり戦ったが、織田方は城の大半を攻め落とされ、降伏した。
 戦後、主家を失い浪人するところであったが、関ケ原の折に敵であった福島正則は長政を評価し呼び寄せ、福島家に1万9千石で仕えた。慶長9年(1604年)、死去した。