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鎌倉時代末から室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧で作庭家,漢詩人,歌人でもある。別名を木訥叟。尊称は七朝帝師。伊勢国で誕生し宇多天皇9世孫と伝えられ、また、母方は平氏である。幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動?)で甲斐国に移住する。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖。 後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく[注釈 2]、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った[2]。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。たとえば、後醍醐に続き、足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。足利直義との対話を記録した『夢中問答集』は、信心の基本、仏道の要諦を指し示す思想史上重要な書である。 禅僧としての業績のほか、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園など夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。後醍醐帝の鎮魂のために建立された天龍寺の造営にあたっては、直義との協議のもと元に天龍寺船を派遣してその儲けによって造営費用を捻出するなど、商売人としての才覚もあった。さらに、五山文学の有力漢詩人であり、和歌においても勅撰和歌集に11首が入集するなど、文学史上でも足跡を残している。
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