宇多源氏

G748:大原時綱  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 大原重綱 ― 大原時綱 ― 竹腰重綱 G750:竹腰重綱 ●


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竹腰正信 竹腰成方

 美濃国今尾藩初代当主。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄でもある。
 天正19年(1591年)、竹腰正時の長男として誕生。母はお亀の方(志水宗清の娘)。文禄3年(1594年)に母・お亀の方が徳川家康の側室となり、文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、正信も召し出されて近仕し、文禄6年(1601年)に甲斐国に5,000石を与えられた。
 江戸幕府初代将軍・徳川家康が大御所となって駿府に移ると、本多正純,安藤直次,成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に尾張藩主となった義弟・義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下・山城守に叙任されたほか、死去した平岩親吉に代わって22歳で尾張藩の執政に任じられ、名古屋城の普請を監督した。
 慶長17年(1612年)には2代将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜り、元和5年(1619年)には主君・義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃国今尾を居所とした。これが後の今尾藩となる。正保2年(1645年)、死去。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。 

 槍の達人。徳川義直の甥にあたる。慶長19年(1614年)5月15日、尾張藩御附家老、美濃国今尾領主・竹腰正信の長男として、駿府にて誕生した。母は大久保忠隣の養女(孫)の春。お七夜に徳川家康に抱かれ源太郎と命名され、脇差と羽織を賜る。
 寛永8年(1631年)、元服に際し、大膳正好と名乗る。以後、信良(叙任時),成方,可謙,三信と改名する。竹腰家の嫡男であり、寛永10年(1633年)、知行地4000石を賜り、常滑村に住する。翌寛永11年(1634年)、従五位下・出雲守に叙任され、信良と改名する。
 寛永14年(1637年)、江戸に出て翌年名古屋に帰る。帰ったのち、前年に起こった味鋺村の水争いにおける水奉行に対する処断で藩主・徳川義直と対立し、不仲となり登城する機会が減る。寛永16年(1639年)6月には病と称し、常滑村庄屋の衣川八兵衛宅に引き籠った。
 正保2年(1645年)、父が没すると家督は弟の正晴に譲り、高野山で出家、霜閑と号する。正保3年(1646年)、藩主より合力米2000俵と屋敷を賜り、旧領のうち200石を本家に返還している。正保4年(1647年)、瀬木村に新居を建築し移る。慶安元年(1648年)、藩主より三徳備える人物として評され、三信の名を賜る。寛文6年(1666年)、渥美半島田原湾岸に石塚新田を開拓する。
 貞享5年(1688年)2月21日、死去。墓所は榎戸村(愛知県常滑市榎戸)の龍雲寺で、墓石は常滑市指定文化財になっている。 

竹腰正晴 竹腰正武

 尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第2代当主。初代当主・竹腰正信の次男。正室は能見松平英親の養女(一柳直興の娘)。正保2年(1645年)4月30日、父・正信が死去し、嫡男であった兄の成方が出家して家督を譲られたため、同年5月26日に跡を継いだ。このとき、弟の正辰に6,000石を分与している。
 慶安2年(1649年)5月、将軍の徳川家光に初めて拝謁する。承応2年(1653年)1月、従五位下山城守に叙任、4月に家光の年忌で日光山に藩主・光友の名代として参詣、寛文2年(1662年)10月に暇を貰って尾張に帰るが、寛文11年4月には再び光友の名代で日光山に登った。
 延宝5年(1677年)1月19日に死去し、跡を5歳の長男の友正が継いだ。墓所は愛知県名古屋市の相応寺(現在は平和公園)。

 尾張藩の御附家老、美濃今尾領の第5代領主。石川章長の四男。尾張藩附家老の竹腰家とは別家の竹腰正辰家の養子となり、正辰家を相続していたが、本家の正映が宝永6年(1709年)1月18日に死去したため、同年3月22日に跡を継いだ。
 宝永7年(1710年)3月、将軍・家宣に初めて拝謁、12月に従五位下・山城守に叙任、元文4年(1739年)4月に藩主・宗勝に従って尾張に帰藩、延享2年(1745年)には将軍代替わりに宗勝の名代として江戸に上った。宝暦9年(1759年)12月8日に死去。墓所は岐阜県関市志津野の正武寺。
 4代・徳川吉通から8代・徳川宗勝時代の尾張藩御附家老を務め、性質度量は温恭で、身のこなしはよく練れており、大変気配りのできた人物であったという。宗春が第7代藩主となると、その政策をよく支え、尾張藩を繁栄に導いた。幕府が反宗春政策を押し出し宗春を隠居謹慎に追い込むと、美濃高須藩第3代藩主・松平義淳(尾張藩第8代藩主・徳川宗勝)を奉じ、尾張藩の危機を救うとともに、宗春に名古屋城三之丸の3千坪の御屋敷を提供し、後は7万5千坪御下屋敷に住んでもらうなど心配りをした。宗春の一人娘・頼姫を九条家に嫁がせようとしたり(婚約相手が急死し近衛家に嫁ぐ)、宗春の愛妾である阿薫の方を正妻のように遇したり、宗春への心配りも散見される。
 正武の長男・正方は家督相続前の元文5年(1740年)に29歳で死去、寛保元年(1741年)に養子として正喜(植村家包の弟)を迎えたが宝暦3年(1753年)に34歳で病没、結局、尾張藩主・徳川宗勝の5男・勝起が養子となって竹腰家の家督を継いだ。 

竹腰正富 竹腰正旧

 尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第9代当主。子はなく、尾張藩において徳川義直の血筋の生き残りであったこの系統も正富の代で途絶えることとなった。養子として、竹腰正厚,竹腰正旧を迎える。官位は従五位下・兵部少輔。諱は正諟,正美とも。
 天保3年(1832年)11月、将軍の徳川家斉に初御目見し、12月27日に従五位下・壱岐守に叙任。後に山城守・兵部少輔に改める。天保8年(1837年)11月21日、父・正定が隠居したため跡を継いだ。
 尾張徳川家の後継者問題については、将軍家から養子を迎えるなど、成瀬正住ととも幕府寄りな立場をとった。幕末期の藩政のなかでは「ふいご党」に近く、安政の大獄で尾張藩14代藩主・徳川慶勝が隠居すると、正富は15代藩主・徳川茂徳の下で藩政を取り仕切った。
 文久2年(1862年)9月10日、幕府から隠居を命じられた。それにともない、養子の正旧に家督を譲った。さらに、同年9月14日、幕府から領地に戻ること、そして差控を命じられた。前藩主・徳川慶勝の政治的な復権にともなう措置であった。
 慶応4年(1868年)4月、旧幕府支持の態度により新政府から蟄居を命じられた。明治2年(1869年)3月10日、罪を赦された。ただし、藩政にたずさわることは禁止された。明治17年(1884年)7月24日、死去。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。 

 美濃国今尾藩の第10代当主で初代藩主となる。三河国田原藩主・三宅康直の4男。正室は中勘弥の養女。
 万延元年(1860年)に先代の竹腰正富が失脚・蟄居したとき嗣子がいなかったため、文久2年(1862年)10月、その養嗣子となって跡を継いだ。慶応4年(1868年)1月27日、新政府の計らいにより正式な藩として認められ、初代藩主となる。同年10月、かつての竹腰氏の祖であった竹腰正信が徳川義直から与えられていた1万石を尾張藩に返還している。しかし、この措置は竹腰家にとって財政的に厳しく、明治3年(1870年)10月29日には1万石を取り戻している。
 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により今尾藩知事となり、明治4年(1871年)に廃藩置県のため免官。明治43年(1910年)8月22日、60歳で死去。墓所は岐阜県関市の円泰寺にある。