G521:井上頼季 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 井上頼季 ― 須田為実 | G528:須田為実 | ● |
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須田満国 | 須田満親 |
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満国は村上義清と共に武田信玄の信濃侵攻に対抗したが、天文22年(1553年)に武田に敗れ、義清と共に越後の上杉謙信を頼った。以後は謙信の家臣として仕え、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いに参加している。 |
謙信没後は上杉景勝に仕え、越中方面の総指揮官となって松倉城に入り、佐々成政との戦いに従事する。この頃には一時、越中国人舟見氏の名跡を継いで舟見宮内少輔規泰と名乗っていた。のちに魚津城主となるが、天正11年(1583年)、成政に城を明け渡して退去し、同年信濃海津城代に転じ、上杉領の北信4郡(高井・水内・更級・埴科)の押さえを任された。天正13年(1585年)に真田昌幸が徳川家康と対立して上杉方に転じた際には昌幸との交渉役を務め、昌幸の次男・信繁を人質として預かった。同年に昌幸が家康に攻められると、上杉方援軍の指揮を執った(第一次上田合戦)。 |
須田満胤 | 須田長義 |
父とともに上杉景勝に仕える。当初は信濃飯山城に在番した。天正14年(1586年)景勝の上洛に従い、天正20年(1590年)小田原征伐にも参陣した。慶長2年(1597年)伏見城普請に充てられるが、不備があったために同じく担当であった柿崎憲家らとともに改易処分となり、京都で浪人した。そのために須田家は弟の長義が継いだ。 |
上杉景勝に仕え信濃国須田城を領した。慶長3年(1598年)、景勝が会津に移封されると、梁川城代となり、20,000石を与えられた。 |
須田満主 | |
須田知義の嫡子として誕生し、宝暦3年(1753年)6月23日に家督相続。 |