清和源氏

G412:佐竹義業  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 佐竹義業 ― 山本義定 G418:山本義定


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山本義経 山本時綱

 父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男・山本義定。治承・寿永の乱の初期に近江国で挙兵した。本姓が源氏であるため正式な姓名は源義経であり、源頼朝の弟の源義経と同姓同名であったため「義経二人説」で知られる。
 『吾妻鏡』によれば、近江国浅井郡山本郷にあった山本山城の城主であり、弓馬の両芸の優れた武将であった。安元2年(1176年)、延暦寺の僧を殺害したため佐渡へ配流されるが、『吾妻鏡』では平家による讒言と主張している。
 治承4年(1180年)、罪を許され帰京。同年11月20日、諸国の源氏の旗上に同調して、弟の柏木義兼(甲賀入道)ら近江源氏とともに兵を挙げる。近江国の勢多・野路で伊勢国に向かう途中の平氏有力家人・藤原景家とその郎党たちの一行を襲撃し、討ち取った首を勢多橋に晒している。景家の軍勢は平氏打倒の兵を挙げたのち敗れた以仁王を討ち取っており、義経はいわば王の仇を討ったことになる。近江源氏の蜂起の経過は九条兼実の日記『玉葉』に記述されている。
 山本義経,柏木義兼ら近江勢は水軍をもって琵琶湖をおさえ、また小舟や筏を使って勢田に浮橋をかけて北陸からの年貢の輸送を止めた。近江勢は勢多を越えて三井寺に打ち入り、京は騒然とした。12月に入り、平氏は平知盛を大将軍とする追討使を近江へ派遣。近江勢は逐電し、平氏軍は勢多・野路を放火して近江勢を追った。これに対して美濃源氏の兵5000騎が近江国柏原へ出陣。平氏軍は3000騎でこれに対した。12月5日に近江・美濃源氏の3000騎と平氏軍2000騎が合戦して、近江・美濃源氏は追い散らされた。
 山本義経は延暦寺宗徒と合力して三井寺に立て篭もり、六波羅へ夜討をしかけた。平氏軍は背後を塞いで東西より攻め寄せる体勢をとる。清房らの援軍を得て平氏軍は三井寺を攻め落とす。山本義経は脱出してなおも抵抗を続けた。近江勢は山本義経の本拠・山本山城に篭城するが、12月16日に知盛・資盛に攻められ落城。山本義経は逃れている(この頃に源頼朝とも面会の話があるが、真偽は不明)。
 寿永2年(1183年)、山本義経は源義仲の軍に加わり入京して、京の警備任務にあたっている。伊賀守次いで若狭守に任じられた。平氏から身を隠して比叡山に逃れた後白河法皇が都へ戻る際、義経の子・錦部冠者義高が警護している。
 寿永3年(1184年)1月20日、源義仲は源範頼・義経の軍に攻められ滅亡(宇治川の戦い)。この合戦で義仲軍として参戦した子の錦織義高は逐電して行方不明となり、義広は戦死した。これ以後、山本義経は史料に登場せず、消息は不明である。
 女優の山本富士子は義経の後裔と称した。

 鎌倉時代末期に起こった正中の変に際して、山本九郎時綱は六波羅の命を受けて謀反に加担している土岐頼員の宿所へ討ち寄せた。そして、長刀で武裝した中間二人を率いて討ち入り、頼員の子・頼兼を討ち取ったと『太平記』に記されている。山本氏が六波羅探題に出仕し、相応の地位の武士であったことが知られる。戦国時代に武田信玄に仕えた山本勘助は、九郎時綱の子孫という伝もある。
山本尚親 山本尚貞
 応仁の乱では尚親は将軍義政に属して活躍、岩倉一帯,醍醐,河内,近江,丹波などに所領を得た。そして、小倉山に城を構えたという。一方で西川家系図によれば、文明16年(1484年)に細川政元の家臣・香西元長が岩倉に乱入しようとしたとき、小倉山城主・西川氏の援軍として静原から駆けつけた。これが、山本氏が岩倉に進出するきっかけになったようでもある。いずれにしろ、山本氏は尚親のとき、岩倉に一定の地歩を築いたと考えられる。 文明4年(1472年)、乱に加えて飢饉となったことで、京市内には悪党が跋扈するようになった。尚親は内裏を守護した功により、巴橘紋の練絹を賜り、それで軍旗をつくり、家紋とするようになったという。 のちに尚親は従五位下に叙され、佐渡守を称している。

 大永7年(1527年)、細川高国と三好・波多野連合軍とが桂川で戦ったとき、尚利(尚貞)は連合軍に属して奮戦、戦後には丹波に所領を得たという。
 天文法華の乱が起こると、山本氏は田中の渡辺氏らとともに法華門徒を攻撃した。その後の天文7年(1538年)、山本修理が実相院門跡領を違乱したことが『実相院文書』にある。山本氏が岩倉を本拠として、在地支配を着実に拡大している様子がうかがわれる。
 幕政を掌握した細川晴元であったが、晴元は将軍・足利義晴と対立するようになり、京洛の擾乱はとどまることがなかった。晴元は三好長慶を四国から呼び寄せ、義晴に対応した。このとき、山本則尚は晴元に味方して大雲寺(上薗城)に拠ると、義晴方の細川玄蕃允の攻撃を迎え撃った。その後、晴元と長慶が対立、長慶は京都近郊の幕府直轄地、晴元方の所領を没収に動いた。
 晴元に加担した則尚は、三好に抗して所領の確保に努めた。天文20年(1551年)、三好勢が岩倉に来攻してくると、尚利は長慶に対抗したが、岩倉山本館は放火され、岩倉・長谷は三好勢の乱妨にさらされた。三好軍は再三にわたって岩倉を攻め、尚利は将軍方に属して三好軍と交戦したようだが、 ついには三好方に転じて22年には佐竹氏とともに晴元軍と戦っている。
 永禄7年(1564年)、三好長慶が病死したことで、京は長慶の重臣・松永久秀と三好三人衆との権力争いの場となった。尚利は三好三人衆に従って、幕府奉行衆の三淵藤英と交戦した。
 永禄11年(1568年)、京の混乱を横目に、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。尚利は信長・義昭に通じて所領の安堵を得たが、翌年、信長の不在を突いて三好三人衆が京都に侵攻、義昭の宿所を攻撃すると、三人衆に味方した。さらに、信長と義昭が不和になると、尚利の子・俊尚は義昭方についたため、元亀元年(1570年)、俊尚は近江高島において自害に追い込まれた。

山本尚治 柏木義兼

 元亀2年(1571年)、比叡山攻めが開始されると、尚治は弟らとともに信長の軍に参加、所領回復を願って比叡山攻めに従軍した。しかし、天正元年(1573年)、義昭が槙島城によって信長に反旗を翻すと、尚治は義昭に味方して渡辺氏,磯谷氏らとともに一乗寺山城に籠った。一説には渡辺宮内少輔とともに静原城に籠ったが、明智光秀に諭されて降伏、以後、光秀に従った。そして、本能寺の変後の山崎の戦いで戦死したという。しかし、『信長公記』には、天正元年、山本対馬守が静原山に籠城、明智光秀の調略によって生害、頚は北伊勢東別所まで送られたとある。山本氏の敗北は、土豪が割拠した時代から統一政権の成立を示すものであり、中世の終焉を象徴するものであった。
 尚治の戦死後、山本氏は岩倉から没落した。その後、監物昌尚の子・尚宗が岩倉に帰り、その子孫が実相院宮に奉仕して岩倉に定着。子孫は連綿として現代に続いている。 

 治承4年(1180年)11月21日、諸国の源氏の旗上に同調して、兄の山本義経とともに近江国の勢多・野路で挙兵。義経と義兼は琵琶湖をおさえて北陸道からの年貢を止め、水軍をもって三井寺に討ち入り、寺々に押し入った。九条兼実の『玉葉』は、義兼は左右なく京へ打ち入ろうと欲するが、甲斐源氏が使者を送って、無勢で攻め寄せても追い返される恐れがあるため、援軍が到着するまで暫く攻撃を止めさせているという伝聞を記している。
 12月1日、平氏方の平田家継(平田入道)が近江へ攻め込み、源氏方の手嶋冠者を討ち、更に義兼の城を落とした。美濃源氏の軍勢が義経・義兼の援軍に到着するが、12月5日に平知盛を大将軍とする追討使と戦い追い散らされる。義経・義兼は三井寺に拠るが、平氏軍がこれを攻めて落とす。義経・義兼は逃れて山本山城に篭るが、12月15日に知盛・資盛の軍勢に攻められて落城。この後、兄の義経は落ち延びている。
 『源平盛衰記』によると、寿永2年(1183年)、義兼は源義仲の軍に加わり、信濃国,加賀国の住人とともに先陣の大将として越前国へ攻め込み、燧城を構えて立て篭もっている。義仲が平氏を逐って入京すると、義兼は兄の義経とともに京の警護に任じられた。以後の消息は不明。 

山本忠行 山本康忠
 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕のために護良親王と共に山本忠行が上洛し、勲功を認められて櫟原荘の地頭に任じられ、その後も南朝方として北朝方の国人と戦うが、やがて紀州中部の有力国人であった湯川氏らと同じく室町幕府奉公衆として四番衆に編入された。

 永禄3年(1560年)頃、山本忠朝の子として龍松山城で誕生。永禄9年(1566年)、忠朝が死亡すると異母兄・山本弘元との間で家督争いが起きる。弘元は小山氏・安宅氏ら近隣の国人を味方につけたが、重臣の田上朝康(右京進)とその一族らの活躍でこれに勝利し家督を継いだ。
 天正13年(1585年)より羽柴秀吉より紀州征伐を受け、居城の龍松山城にて3ヶ月間の籠城し杉若越後守を大将とする3,000の豊臣軍を迎え撃ち、豊臣勢を悩ました。南紀勢の思わぬ善戦に手を焼いた秀吉は、本領安堵を条件に和議を提案、山本氏らもこれを入れて豊臣秀吉に降った。その後、秀吉の弟・秀長が大和・紀伊の太守となり、紀州も新たな時代を迎えた。しかし、湯川直春や山本主膳正康忠らの勢力は依然として強く、豊臣政権の威令も奥熊野には浸透しなかった。
 翌天正14年(1586年)、主膳正康忠は湯川直春とともに大和郡山城に参候して秀長に挨拶した。湯川直春は城内で毒殺され、主膳正康忠は藤堂高虎邸で殺害された。豊臣家にしてみれば、家康に通じたことといい、その後の不遜な態度といい、主膳正康忠らはいずれ排斥される運命であった。ここに、山本氏は没落の運命となり、紀州の戦国時代はまったく終焉を迎えたのであった。