清和源氏

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小場義躬 小場義宗
 室町期の常陸守護佐竹義篤の庶長子義躬が、那珂郡に小場城を築いてそこに拠ったことから小場氏を称したことに始まる。

 小場義忠は男子がなく女に佐竹義昭の3男・義宗を婿養子として迎えた。義宗は佐竹義重の弟にあたるため、小場氏の佐竹一族中における地位は、北・東・南家と並んで高くなった。義宗は、那珂川の対岸にある大山城に拠った同じ佐竹一族大山氏と所領問題などでたびたび紛争を起こしていたが、永禄13年(1570年)12月と天正4年(1576年)3月と、2回ほど和解の証明として大山氏と起請文を交わしている。その後、家督を子の義成に譲ったが、それ以降も佐竹一族の有力者としての信頼を集め、多賀谷重経,君島高親などから書状などを送られている。
 義宗は父から家督を譲られ、従兄弟にあたる佐竹義宣のよき協力者となった。天正17年(1589年)、義宣に従い、家臣たちを率いて陸奥白河で伊達政宗と戦った。翌年、豊臣秀吉の小田原出陣が間近になったとき、下野高田専修寺の尊紹から義宣の参陣を促す書状を受け、これより少し前には芳賀高継から同様の書状を送られている。
 そして、同年5月、義宣に従って小田原に参陣し、秀吉へ太刀・馬・金を進上した。文禄2年(1593年)の朝鮮出兵に際しても、肥前名護屋に在陣した。慶長5年(1600年)の佐竹藩内の領地再編で、小場氏は小田城に移城、小場城には大山義喜の子・則宗が入った。
 慶長7年(1602年)、佐竹氏の秋田移封に従って、秋田大館に移り、寛永10年(1633年)12月、その地で没した。以後も、小場氏は秋田佐竹氏の重臣として続いた。

小場義成 小場義村

 出羽国久保田藩大館初代所預。永禄12年(1569年)、常陸国の戦国大名・佐竹氏一族である小場義宗(義家)の子として誕生。慶長5年(1600年)、主君・佐竹義宣に常陸小田城を与えられ、5万石を給される。慶長7年(1602年)、江戸幕府の命により主家が秋田に転封となると、東家の佐竹義賢と共に先乗りし、檜山城を守る。慶長8年(1603年)、領内で浅利氏の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年(1610年)、南部氏や津軽氏への抑えとして大館城を任され、知行5000石を給される。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に参戦する。
 元和8年(1622年)、出羽山形藩の最上義俊が改易となると、幕命により本荘城,滝沢城の受け取りの任を務める。寛永6年(1629年)2月、佐竹家が江戸城神田橋の石垣普請を命じられると、その監督を務める。工事の完成後、江戸城で2代将軍・徳川秀忠に拝謁して、時服と虎皮投鞘の槍を賜る。寛永11年(1634年)10月27日、死去。享年66。

 宝永3年(1706年)、久保田藩士・小場處慶の長男として生まれる。宝永7年(1710年)、西家・佐竹義方の遺跡を相続。正徳5年(1715年)、常陸の小場城の跡地に家臣を派遣して、先祖の事跡を調査させる。享保9年(1724年)、藩主・佐竹義峯帰国許可の御礼使者として江戸に出府する。延享3年(1746年)、幕府巡見使が大館を訪れ、その供応を務める。宝暦3年(1753年)、藩主・佐竹義明家督相続の御礼言上の際に、将軍・徳川家重に拝謁する。宝暦7年(1757年)、藩内で銀札発行派と反対派の対立による騒動が起こると、藩主・義明に事態の究明を命じられ、銀札発行派の家老・山方助八郎らを藩内に騒動を謀ったとして処断する。騒動解決後500石の加増を受けた。明和5年(1768年)死去。享年63。
小場義遵
 1864年(元治元年)、父の隠居により家督相続。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、久保田藩が新政府軍につき、列藩同盟側の盛岡藩(南部家)に8月に大館城を攻撃され、支えきれずに8月22日城に火を放って退却した(大館城攻城戦)。8月28日には佐賀藩からの援軍を受けて反撃し、9月5日に盛岡藩軍が撤退したため大館を奪還した。1868年(慶応4年/明治元年)には新政府の命で盛岡藩の盛岡城受け取りを務める。1869年(明治2年)に久保田羽前取締所権知事を拝命。1874年(明治7年)大蔵省に出仕する。1875年(明治8年)大蔵省を辞職して大館に帰る。1900年(明治33年)、戊辰戦争での功績により男爵に叙される。1901年(明治34年)死去。享年64。