清和源氏

G336:斯波家氏  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 斯波家氏 ― 最上兼頼 G344:最上兼頼


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最上兼頼 最上直家

 延元元年(1336年)3月、関東執事・斯波家長の命により相馬氏を従えて行方郡へ行き、北畠顕家と激しく争う。この時、兼頼は元服前であり足利竹鶴を称し、重臣・氏家道誠の後見を受けている。延元2年(1337年)、北畠顕家との杉本城の戦いで斯波家長が敗死し、鎌倉も陥落したため足利義詮は安房へ逃れる。上杉憲顕などは北畠顕家が西上した後、鎌倉を奪還、顕家を追って西上するが美濃青野原の戦いで敗れる。同年、氏家道誠を通じて武石道倫の所領(陸奥亘理郡坂本郷)を安堵している。暦応2年(1339年)には式部大夫として元服している。
 家兼が北陸から奥州に移ると、兼頼も共に下向する。延文元年(1356年)、出羽地方の北朝方として寒河江大江氏,山家氏などの南朝方の抵抗を抑えるために、出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形に入部し、翌年には山形城を築城し本拠とする。入部した兼頼はまず滝之平瑜伽寺の塔頭を移して宝幢寺を建て、その他にも多くの寺社を建立した。
 出羽国の安国寺は、寺伝によれば延文4年(1359年)に兼頼によって建立されたという。大曾根荘を地盤とした兼頼にとって、安国寺を建立した山辺荘大寺は村山盆地の最上川を超えて勢力を伸長する寒河江大江氏を牽制する位置であった。
 貞治6年(1367年)に鎌倉公方の足利基氏が死去した後、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、漆川の戦いにおいて、鎌倉公方を継いだ足利氏満や、兄で奥州探題の大崎直持と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の里見氏に弟の義宗を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏の基礎を築いた。兄の直持は奥州管領家の大崎氏の祖となった他、弟の持義,将頼らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。
 応安6年(1373年)頃には、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に、所領の最上郡に因んで苗字を最上氏とした。
 永和元年(1375年)、嫡男の直家に家督を譲って以降は城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送ったとされるが、永和3年(1377年)の「室町幕府管領奉書」(円覚寺文書)によれば、出羽国内円覚寺領の棟別銭徴収を担っている。康暦元年/天授5年(1379年)死去した。  

 斯波兼頼の嫡男として生まれ、正室として伊達宗遠の娘を娶り縁戚関係を結ぶ。永和元年(1375年)、兼頼の跡を継ぎ最上氏第2代当主となった。その伊達氏は天授6年/康暦2年(1380年)頃から置賜の長井氏を攻め始める。一時、鎌倉公方の干渉によって伊達氏は撃退されるが、結局、元中2年/至徳2年(1385年)には長井氏は滅亡し、最上氏と伊達氏は隣接することとなった。至徳元年(1384年)に至徳寺を創建し、応永元年(1394年)には屋形号を許され最上屋形を名乗ったという。応永2年(1395年)、鎌倉公方・足利氏満によって南奥羽の田村氏討伐の陣触れを出し、最上氏も霊山へ出陣した。こののち、大佛城攻めにも参加している。応永3年(1396年)に小白川天満神社に菅原道真を祀った記録が残る。
 『餘目氏旧記』によれば、奥羽・出羽が鎌倉府の配下に入ると、最上氏は大崎氏とともに鎌倉に伺候し、相模国山内荘長尾に居を構えたという。
 応永6年(1399年)、応永の乱で鎌倉公方が室町幕府に対して叛意を示したものの、不調に終わると両者の関係は悪化し、同年鎌倉公方が設置した篠川御所,稲村御所によって奥羽の豪族と鎌倉公方の関係も悪化した。翌年、大崎氏が幕府から奥州探題に補任されると、応永9年(1402年)、伊達氏・大崎氏らが挙兵し公方側の結城氏や上杉氏と争う(伊達正宗の乱)。このとき最上氏は公方側に付き、近隣諸侯とともに伊達氏苅田城攻めを行っている。
 応永17年(1410年)1月6日に死去。

最上義定 最上義守

 永正元年(1504年)、父の死により山形城主となる。同年に永年の宿敵であった寒河江氏に後継者争いがあるのを察知し、3度攻めて和議を結び傘下に入れたとされる。この時に寒河江の大寺慈恩寺が焼失している。また、先々代寒河江氏当主・寒河江知広の娘を弟・中野義建の室とした。永正9年(1512年)には庄内で武藤氏と砂越氏の戦いがあり、義定は勝者の進出を想定して寒河江まで出陣する。また一族・山野辺直広の娘を室とするなど、当初の動きは極めて活発だった。
 永正5年(1508年)上山に進出した伊達氏が、永正11年(1514年)山形に侵攻。義定を中心に天童氏,清水氏,延沢氏など各地の最上氏有力支族、傘下の寒河江氏などの連合軍は、稙宗と長谷堂で戦って敗北し、岳父の山野辺直広,吉川政周(寒河江一族)らが戦死する。稙宗は小梁川親朝を長谷堂城に駐留させたため山形城は大きな脅威にさらされ、義定は中野城に移らざるをえなかった。翌年、稙宗の妹を娶って和議を結ぶが、以後は伊達氏の影響力により最上氏宗家の勢力は衰退し、庶流の天童氏を中心とした最上八楯の形成要因となってしまう。そのような情勢の中で永正17年(1520年)2月2日に卒去。義定と伊達夫人の間には子がなかったため後継者争いに伊達稙宗が介入し、2年後にようやく中野氏を継いでいた弟・義建の孫である義守が、わずか2歳で次の当主に迎えられた。なお、山野辺夫人との間に子があったが、傀儡化を狙う伊達家に退けられたという説も存在する。

 

 大永元年(1521年)、中野城主・中野義清の2男として生まれる。伊達稙宗は周辺国人と和議を結び傘下に加えたものの、最上氏の後継指名においては国人たちの抵抗にあい、大永2年(1522年)中野氏から義守が当主として迎えられ、2歳で家督を継いだ。この年、伊達稙宗侵攻の際に伊達氏に味方したとして、天童頼長が立石寺を焼き討ちした。
 天文4年(1535年)、先に天童氏の焼き討ちにより荒廃した立石寺を再建させるなど、最上家領内の復興に努めた。この頃の最上氏は伊達氏に事実上服属していたが、天文11年(1542年)に稙宗・晴宗父子の間で天文の乱が発生すると、重臣の氏家定直や谷粕相模守の補佐を受けつつ稙宗方に属して参戦し、長谷堂城を奪還して伊達氏から独立し勢力の拡大を図った。さらに長井郡にも進出したが、蘆名氏が晴宗方に転じて形勢が逆転すると義守も晴宗方につき、乱は晴宗方の勝利に終わった。
 天文15年(1546年)嫡男義光が誕生する。この頃、最上川西岸に割拠する寒河江兼広と庄内大宝寺氏の配下で隠然たる影響力をもつ土佐林禅棟との三者において同盟を結ぶ動きがあったが、失敗に終わった。永禄3年(1560年)、寒河江城主・寒河江兼広を攻め、勢力拡大に勤めるが不首尾に終わった。この年、室町幕府14代将軍・足利義輝に使者を送って嫡男の義光に偏諱を賜り、翌永禄4年(1561年)には返礼として義輝に鷹を贈っている。永禄6年(1563年)に義光とともに上洛し、義輝に謁見した。この際御所号で対応された。義光に同族の大崎義直の娘を輿入れさせたほか、永禄7年(1564年)頃、娘(義姫)を伊達輝宗に嫁がせ、永禄10年(1567年)には伊達政宗が生まれている。
 元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じ、義光は立石寺に家督相続を立願する5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解し、8月には義光が家督を相続した。翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する(天正最上の乱)。天童頼貞,白鳥長久,蔵増頼真,延沢満延らが義守・輝宗に同調、義光派の寒河江氏を攻める。寒河江氏も義守側に付き、義守派有利で和睦がされたが義光は敵対勢力を個別に撃破し、寒河江氏も再び義光に伺候する。9月10日には義光に有利な和議が伊達氏と成立し伊達氏も撤兵した。
 その後も義守と義光の対立は続いたが、11月に白鳥長久の仲介で和議が結ばれ、義守は菩提寺龍門寺に隠居した。
 天正18年(1590年)5月18日死去、享年70。義光は父の葬儀により小田原征伐参陣が大幅に遅れたが、徳川家康の執成しにより本領を安堵された。

最上義姫 中野義時

 伊達輝宗の正室で伊達政宗の母。通称は米沢城の東館に住んだことからお東の方や最上御前とも呼ばれた。出家後の院号は保春院。
 永禄7年(1564年)頃、最上氏と対立していた伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年8月3日(1567年9月5日)、19歳で政宗を産む。
 天正6年(1578年)、上山城主・上山満兼が輝宗と連合し兄・義光を攻め、義光が不利な状況に陥ると、義姫は駕籠で陣中を突っ切り夫の元へ参じ、輝宗に抗議をし撤兵をさせた。
 天正12年(1584年)、政宗が伊達家の家督を継ぐ。天正13年(1585年)には輝宗が二本松義継に殺され未亡人となった。彼女は、隠居したといえど影響力のある輝宗を疎んじた政宗が、謀殺したのではないかと疑い、政宗に関して不信感を抱いたとされる。さらに政宗が各地に進撃する中、最上家とは遠縁にあたる塩松氏に攻め込んだり、最上家の本家にあたる大崎氏に攻め込んだことが、彼女に不快感を抱かせた。
 一方、彼女の兄・義光も政宗に警戒を強め、自らも庄内侵攻を開始し、伊達・最上間の対立もより深刻化していった。このことが、彼女の伊達家中での立場を悪化させていった。
 天正16年(1588年)の大崎合戦で、政宗が義光によって包囲され危機的な状況に陥った状況において、義姫は戦場に輿で乗り込み、両軍の停戦を促した。義光は妹の頼みを断ることができなかった。このため、80日ほど休戦の後に両者は和睦している。
 政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとしていた天正18年(1590年)、義姫自身が毒入りの膳を政宗に差し出す事件が起こったとされてきた。政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れたという。この件により母子の対立は頂点に達し、政宗は弟・小次郎を自ら斬殺したと伝わる。ただし、この毒殺未遂の根本史料は伝わっていない。政宗の小次郎斬殺後も、義姫は伊達家に留まり母子は親しく文の遣り取りをしている。
 文禄3年(1594年)11月に義姫が岩出山から出奔して山形の最上家に戻ったとある。
 慶長5年(1600年)、奥羽では慶長出羽合戦が勃発する。この際、政宗は最上義光より援軍を請われ、義姫も政宗に援軍を急かす書状を送っている。片倉景綱は政宗に、最上勢と敵軍が疲弊するのを傍観して待つよう進言したが、母の安否を気遣った彼はその言を退け援軍を派遣した。戦後、義姫は政宗と援軍の留守政景に対して感謝の書状を送った。
 義姫は慶長19年(1614年)の義光の死後、最上家中がすっかり様変わりしたと嘆いていたという。その後の内紛によって元和8年(1622年)に最上氏が改易されると義姫は行き場を失い、元和9年(1623年)には政宗を頼って仙台城に入り落飾した。同年7月16日、政宗の京に上っている最中、仙台にて死去。覚範禅寺において火葬された。享年76。

 天文19年(1550年)に最上氏第10代当主・最上義守の子として誕生する。母は永浦尼ともいわれるが不明。父・義守は義時を偏愛するようになり、嫡子の義光を冷遇するようになる。のち義守は義光を廃嫡し、義時に家督を譲ろうとしたため、義光は次第に義守や義時と対立することとなる。当初は重臣の殆どが義守・義時派についていたが、最上家重臣である氏家定直の調停により、結局は義守が元亀元年(1570年)に隠居し、義光が家督を継ぐことになった。
 家督相続の直後に定直が死去したため、その後、隠居していた義守が再び義時に味方するなど家督争いが再燃し、家臣団の分裂や義守側に荷担した伊達輝宗が出兵してくるなど、その抗争は激化し、天正最上の乱に至る。しかし義光は逆に一族・家臣団の粛清・統制を行ない、天正2年(1574年)に義時のいる中野城を攻撃。結局、義時は後継争いに敗れ、義光によって自害させられた。

黒川氏直 黒川景氏

 黒川氏初代・氏直の出自については、以下の三説がある。
①最上氏初代・兼頼の子。没年月日不詳。(「報恩寺旧蔵黒川氏系図」)
②最上氏第2代・直家の子。応永26年(1419年)6月28日死去、子に満氏。
    (『寛政重修諸家譜』巻80所収「最上氏系譜」)
③最上氏第3代・満直の子。文明3年(1471年)6月18日死去。
    (「水沢大衡氏系図」)
 「最上氏系譜」と「水沢大衡氏系図」とでは、氏直の没年に半世紀近い差があり、また黒川氏歴代の位牌には氏直の物が無い代わりに、文明4年(1472年)8月15日死去の景氏(6代景氏とは別人。満氏か?)の物が存在するなど、かなりの混乱が見られる。

 文明16年(1484年)、伊達氏庶流・飯坂清宗の子として生まれる。急速に勢力を拡大していた伊達稙宗によって、黒川氏第5代当主・黒川氏矩の養嗣子として送り込まれる。景氏入嗣の時期は確定できないが、永正16年(1519年)に上洛して嫡男・稙国に将軍・足利義稙より偏諱を賜っていることから、この年までには養嗣子となっていたと考えられる。
 氏矩は享禄2年(1529年)に死去する。当主となった景氏は、新たに鶴楯城を築いて、従来の御所館から移った。天文5年(1536年)に発生した大崎氏の内乱では、稙宗の命を受けて反乱軍の拠点・古川城の攻撃に参加し、内乱鎮圧後に救援の代償として稙宗の子・義宣を大崎氏に入嗣させる際には、大崎家中の鎮撫を任せられた。天文11年(1542年)に発生した天文の乱では稙宗方に与して、大崎義宣と共に名取郡・柴田郡に出兵したものの、乱は晴宗方の勝利に終わった。黒川氏からは黒川藤八郎という者が晴宗方についていたが、景氏は大崎義宣,葛西晴清らのように当主の地位を失うことはなかった。
 天文21年(1552年)4月15日死去。享年69。嫡男・稙国が家督を相続した。

黒川晴氏 天童頼貞

 大永3年(1523年)、陸奥黒川氏第7代当主・黒川稙国の子として生まれる。将軍・足利義晴より偏諱を拝領して晴氏と名乗り、永禄11年(1568年)に兄の第8代当主・稙家が死去すると家督を相続して黒川氏第9代当主となった。
 黒川氏は斯波一門・最上氏の分家にあたり、奥州探題大崎氏(最上氏の本家)に属していたが、16世紀初期には伊達稙宗の勢力伸長に伴って伊達一門の飯坂家から養子を迎えており(第6代当主・景氏)、加えて稙宗が大崎氏を実質的に従属させたことで、晴氏の代には黒川氏は半ば独立した地位を保ちつつも、大崎・伊達氏に両属する状態にあった。晴氏は娘を伊達晴宗の3男・留守政景に嫁がせ、また男子がいなかったため、義兄・大崎義直の子・義康を養嗣子とし、義康の正室には晴宗の弟・亘理元宗の娘を迎えた。
 晴氏は智勇兼備の将として名高く、伊達氏の傘下にあって活躍した。ところが天正12年(1584年)に家督を相続した伊達政宗が、父・輝宗の外交方針を破棄して上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めたことで、伊達・斯波双方の一門につながる晴氏の立場は極めて微妙なものとなっていった。天正16年(1588年)2月に政宗が大崎義隆(義康実兄かつ義光義兄)を攻めるに及び、婿・政景の援軍として桑折城に入っていた晴氏は遂に伊達氏からの離反を決め、中新田城攻略に失敗した伊達軍を強襲して撃破した(大崎合戦)。晴氏はさらに潰走した伊達軍の籠もる新沼城を包囲したが、窮状に陥った政景を救うために和睦を斡旋し、泉田重光,長江勝景を人質として提出させることを条件にして城の囲みを解いた。
 天正18年(1590年)7月26日、黒川氏は豊臣秀吉によって小田原征伐に参陣しなかったことを咎められ改易された。秀吉によって黒川領の支配を認められた政宗は、大崎合戦の恨みを忘れず晴氏を殺そうとしたが、政景の取りなしによって助命され、以後は政景の庇護下で余生を過ごした。
 慶長4年(1599年)7月5日死去。享年77。没年には慶長14年(1609年)説もある。

 里見氏流天童氏の第16代当主。天童城(舞鶴城)主。天童頼道の次男で、兄・頼長の死後、家督を継ぐ。国分盛氏の娘を妻とし、伊達氏と同盟関係にあった。また、天童氏は家系的には清和源氏里見氏の庶流であったが、南北朝時代初期の斯波兼頼出羽下向後、斯波氏(最上氏)より2代続けて養嗣子を受け入れ、血統的に最上氏(斯波氏)一門となりその傘下に入った。しかし、惣領筋の最上氏の弱体化により勢力を拡大し、戦国時代の初めには鎌倉公方から同等の扱いを受けるまでに成長した。
 一族の東根頼高が継嗣なく死去すると、次子・頼景を後継として東根氏に入れる。最上氏で家督争い(天正最上の乱)が起こると義守・伊達輝宗側に付いて、義光側の寒河江氏を攻撃した。義守・輝宗と義光に和議が成立すると、頼貞も義光と和議を結んだ。天正5年(1577年)、義光が天童城に侵攻するが最上八楯と共に防衛に成功し、頼貞の娘を義光の側室とすることで和睦した。天正7年(1579年)に死去という説がある。

天童頼澄 清水義氏

 村山郡天童城主・天童頼貞の子として生まれる。はじめは頼久と名乗った。天正7年(1579年)、父・頼貞の没後に12歳で家督を継いだ。
 最上義光には姉妹の天童御前が嫁いでおり縁戚関係であったが、最上八楯の中心として独立した領主であった。また母が伊達氏の重臣・国分盛氏の娘だったことなどから、伊達氏らと結んだ。惣領筋の最上氏とは同盟関係にあったものの、最上義光は天童氏配下の倉蔵氏などを取り込む一方で、天童氏一族の上山氏、妻の父である細川直元らを次々と下していった。やがて天正10年(1582年)に天童御前が亡くなると、程なく義光の侵攻を受けるが、堅城である天童城や、最上八楯らの支援にも助けられ膠着状態が続いた。
 しかし、天正12年(1584年)6月に白鳥氏,寒河江氏が相次いで滅ぼされ、また最上八楯の最有力者である延沢満延が、最上家臣・氏家守棟の調略によって義光側へと寝返ると一気に形勢は最上方に傾き、内応者が続出した。10月、天童城は落城した。頼久は母の実家の国分氏を頼って落ち延び、その後は秋保直盛に依り秋保に寄寓した。天正18年(1590年)1月13日、頼久は御礼として政宗の黒川城に登城した。文禄年中、伊達政宗より家格準一家を命ぜられ、采地1000石を宮城郡利府邑に賜った。後に頼澄と改称し甲斐と名乗った。子がいなかったため、留守政景の次男が養嗣子となり、天童重頼と称した。

 清水氏は最上氏の庶流である成沢氏の一族で、応仁元年(1476年)に成沢兼義の子の満久が最上川の要衝に清水城を築城し拠点としたのが始まりである。近隣の大宝寺氏とたびたび争った。
 義氏は永禄8年(1565年)に父・義高が大宝寺義増に敗れ討ち死したため、跡を継いだ。主家筋の最上義光に接近し、大宝寺氏との抗争を有利に進めた。男子がなかったため、娘(清水姫)が婿養子を迎えるはずであったが、義光の3男・義親が養子として跡を継いだ。清水姫は父の死後、20歳で正室大崎氏と死別した義光に嫁いだ。

清水義親

 豊臣氏の人質となった経緯から豊臣秀頼と交流があった。関ヶ原の戦いでは、上杉軍の追撃の総大将となる。慶長19(1614年)の大坂冬の陣の直前に、大坂方へ通じている嫌疑をかけられ、兄・家親に居城の清水城を攻められて、嫡子・義継と共に自害を余儀なくされた。
 義親は豊臣家に人質になったのに対し、家親は徳川家に仕えた立場にあり、兄弟仲はあまり良くなかったとされる。また、義康が殺害された後も義親の領内では義康から義親に与えられた「義康」の印判が入った文書が発行され続けており、義親が義康を支持していて家親に反感を抱いていたとする見方もある。さらに清水の地は最上川水運の船継地と知られ、かつてはこの地を支配するために最上氏と大宝寺氏が長年争って来た経緯もあった。このため、家親が最上川水運の利権を掌握するために清水の直轄地化を図ったとする見方もある。これらの事情が重なって家親は義親を攻めたと考えられる。