江戸時代に徒歩組頭となり、延宝8年(1680年)3月25日に勘定奉行となる。清重は幕命により、天和3年(1683年)に、稲葉正休,彦坂重紹らとともに畿内治水の再点検を行った。貞享4年(1687年)9月10日に清重は勘定奉行を辞任した。 |
清重の甥の清相も元禄7年(1694年)に亡き父の清純から家督を継いで、小普請,御書院番,御使番,御目付などを歴任した。宝永6年(1709年)10月15日に江戸城西ノ丸御留守居となり、同年に備前守に任命された。 正徳元年(1711年)4月に長崎奉行に任じられた。 着任した清相は長崎貿易の実情を把握した上で幕府に対する上書を作成し、現地から離れた江戸で遠縁筋の新井白石(君義)らの『強硬論』を抑えた上で、輸出銅や来航船数の制限をはじめ、値組制度,信牌制度導入などを進言した。現実を踏まえた上での清相の進言は、後に海舶互市新例の骨子として採用された。 正徳5年(1715年)2月23日に、江戸からの上使を迎え入れた清相は唐船の出航を引き止めて、外国船がほぼ揃った時点で海舶互市新例を通達した。 享保元年(1716年)に清相は『崎陽群談』を編纂したが、翌享保2年(1717年)の4月11日に40歳で没し、子の清祥が後を継いだ。江戸時代後期の清繁の代で嗣子がなく、ついに越後大岡氏は断絶した。
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