別名に不説斎。また、隆綱と同一人物とする説もある。 永正の変により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいた。宗家の結城晴綱の存命中はあまり政治の場に表れることはなかったが、晴綱が病により当主としての活動が困難になると、家中の実権を握るようになる。天正元年(1573年)に晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城氏を取り仕切った。しかし、天正3年(1575年)に家老の和知美濃守と図って義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城氏の当主となる(天正の変)。義親の謀反の原因は、自身の野心によるものとも、岳父の蘆名盛氏に唆されたからともいわれているが、真意は不明。また、最近は義親は晴綱の嫡男であり小峰氏は継いでおらず、家督簒奪ではないという説もある。 なお、晴綱の没後に結城白河氏の当主になったのは、系図上では存在を知られていなかった「結城隆綱」であることが明らかになったが、この人物について義親の初名である説が有力視される一方、晴綱と義顕の間に位置づけて義親の謀叛によって白河を追放された当主とみる説もある。 この頃の白河結城氏は後ろ盾としていた蘆名氏が二階堂氏,田村氏と争いを始め混乱を極めた。この混乱の中、蘆名盛興が死去。白河結城氏は佐竹氏の侵攻に遭って衰退しており、義親は遂にその臣下として屈せざるを得なかった。しかし、天正5年(1577年)7月、佐竹氏が南方から北条氏政に攻められたのに乗じて蘆名氏・田村氏が白河城を攻め落とすと、義親が再び白河家の実権を掌握した。その後の講和条件によって天正7年(1579年)に佐竹義重の次男・義広を養子に迎え、義親は入道し不説斎と号し佐竹氏に恭順の意を示して義広の後見人となり、白河の名跡は義広が継いだ。天正15年(1587年)に義広が蘆名氏を継いだため、再び義親が白河結城氏の当主となった。天正10年(1582年)には蘆名盛隆の斡旋で、追放した義顕が白河に帰参しているが、義広が蘆名氏を継いだ後は義親が白河結城氏の跡を継いでおり、義顕はその臣下という位置づけであった。 その後は佐竹氏に従って伊達氏と人取橋の戦いや郡山合戦などで争ったが、天正17年(1589年)に蘆名氏が滅ぼされると佐竹氏に見切りをつけ伊達氏に服属した。そして、天正18年(1590年)の小田原征伐では、伊達政宗に参陣を止められていたため、政宗に託して豊臣秀吉に貢物を贈ったが、参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易された。 その後、義親は諸国を放浪していたが、慶長6年(1601年)、伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのち伊達一門に列せられ、仙台藩士となった。義親は嫡子がいなかったため、甥で弟小峰義名の子・白河義綱を養子にした。晩年は政宗に厚遇されたという。元和5年(1619年)、79歳で家督を義綱に譲り隠居した。寛永3年(1626年)2月16日に86歳で没した。 那須野ヶ原で鷹狩を開いていたとき、突然一頭の牛が義親の前に現れ、義親の腕に居た鷹が驚いて逃げ去ってしまったため、義親は怒って太刀でその牛を一刀両断した。以後この太刀を「牛切丸」と号し、後に那須神社(栃木県大田原市)に奉納された。鎌倉時代中期の備前国一文字派の作と推定され、県有形文化財に指定されている。
|
文禄元年(1592年)、白河結城氏一族・小峰義名の子として生まれる。父・義名は早世したため、この時点で跡取りのいなかった伯父・結城義親の婿養子となる(これ以前に大関晴増,佐竹義広が義親の養子となっていたが、共に実家に戻っている)。 義親は天正18年(1590年)の奥州仕置の際に改易されて以来、流浪の身であったが、慶長6年(1601年)に伊達政宗の客分となり百人扶持を給与されると、義綱もこれに従って仙台に移った。 義綱は寛永3年(1626年)に義親が死去する以前に既に家督を譲られていたと考えられる。義綱の代以降もっぱら白河氏を名乗るようになったが、義綱の代までは客分扱いのままであり、正式に仙台藩の家中に組み込まれるのは子の義実の代からである(当初の家格は一族。孫の宗広の代で一門に昇格)。 寛永16年(1639年)9月6日死去。享年48。嫡男・義実が家督を相続した。
|