<藤原氏>北家 秀郷流

F929:藤原千常  藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 藤原兼光 FU01:藤原兼光

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藤原兼光 佐貫広綱

 長和元年(1012年)から鎮守府将軍を二度務る。
 平忠常の乱のとき、忠常は下野の藤原兼光を通じて追討使に講和への意志を伝え、兼光はそれを京へ伝える。京では後一条天皇から、兼光に忠常の所在を問い質してはどうかという意見が下された。乱の後、藤原兼光は忠常の乱への同与の風聞があり出家している。

 

 父は佐貫広光、または足利有綱とも。治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵にあたり、平家方の同族である足利忠綱の軍勢に属して以仁王・源頼政の追討に加わり、『平家物語』「橋合戦」に名が見られる。その後、源頼朝に臣従して鎌倉の御家人となり、養和元年(1181年)7月20日、鶴岡八幡宮宝殿上棟式典で源義経,畠山重忠と共に大工に賜る馬を引いている。
 元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは、源範頼の配下で平氏追討軍として西国へ遠征した。文治5年(1189年)9月の奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)11月の頼朝上洛に供奉。随兵には広綱の兄弟と見られる佐貫五郎,佐貫六郎広義の名も見える。建久2年(1191年)3月、鎌倉小町大路で発生した火災で邸が焼失した。同年閏12月、頼朝が三浦義澄の新邸に訪れた際に、三浦義村,三浦景蓮と共に相撲の勝負に召される。建久3年(1192年)11月、永福寺の池石を畠山重忠,大井実春らと共に運んでその大力を頼朝に称賛される。

那波宗俊 那波顕宗

 系図では長尾景長の娘を室とするが、景長の娘は母親で長尾景誠の娘を室としたとする説もある。
 天文10年(1541年)、近隣諸氏(深谷上杉家,足利長尾氏,厩橋長野氏,成田氏,桐生佐野氏)と連合して新田金山城の横瀬氏を攻撃するが失敗に終わる。その後、後北条氏に寝返って山内上杉家を攻めると、これら周辺諸氏は横瀬氏と共に宗俊を攻めるが、小幡氏などの西上野の諸氏が離反した結果、関東管領・上杉憲政は越後国に追われた。
 永禄3年(1560年)、憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)によって赤石城が攻撃され、12月には赤石城,那波城が陥落、降伏した宗俊は後北条方の有力与党とみなされたため、所領を奪われて間もなく没した。
 那波氏の所領は横瀬氏(由良氏)に与えられるが、後に同氏が後北条氏に寝返ったため、謙信は人質として差し出されていた宗俊の遺児・顕宗を旧領に復帰させる方針に転じることになる。

 永禄3年(1560年)に父・宗俊が上杉謙信に居城の赤石城を落とされて降伏した際に人質として厩橋城に送られる。北条方とされた宗俊は所領を奪われて程なく没した。那波氏の所領は上杉氏に味方した由良氏(横瀬氏)に与えられていたが、天正2年(1574年)に由良氏の後北条氏への離反に直面した上杉氏は那波氏の旧領復帰を図る。だが、赤石城は由良氏の支配下にあったため、近くの今村城を取り立てて顕宗をそこに入れたという。
 だが、上杉謙信の没後に始まった御館の乱で義父で厩橋城主である北条高広とともに上杉景虎を支援するが敗北、以後、武田氏,滝川一益(織田氏)に従う。だが、本能寺の変後は上杉氏に復帰した義父と袂を分かって後北条氏に従い、天正11年(1583年)8月には北条高広の侵攻を受けて撃退している。
 だが、天正18年(1590年)の小田原の役で後北条氏について敗れて再び所領を失い、上杉景勝を頼る。だが、同年10月に上杉軍の一員として仙北一揆の鎮圧中に戦死する。安田能元の養嗣子になった次男・俊広以外の子には先立たれたのか、以後の那波氏の活動はみられず、顕宗の代で断絶したと見られている。