| F929:藤原千常 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公脩 | F930:佐藤公脩 |


| リンク | F931 |
| 佐藤基治 | 佐藤継信 |
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源義経の従者の佐藤継信・忠信の父である。奥州信夫郡の佐藤氏一族。信夫庄司と呼ばれていたが、飯坂温泉の湧く地であるため湯の庄司とも呼ばれた。奥州藤原氏2代当主・藤原基衡の時代、康治元年(1142年)、陸奥守・藤原師綱が信夫郡の公田検注を実施しようとした際に基衡の意を受けてこれを妨害し、のちに斬首された大庄司佐藤季春(季治)が父親に当たる可能性もあるが、各地の佐藤氏の家系図には見られない。『尊卑分脈』によれば従五位下左兵衛尉・佐藤帥治の長男とする。基治の母は藤原公景の娘。先妻は源頼朝の臣で上野国の大窪太郎の娘を娶り、前信および治清の2子があった。後、基衡の弟・清綱(亘理権十郎)の娘で秀衡のいとこに当たる乙和子姫を迎え、奥州藤原氏と強固な関係を結んだ。さらに乙和子姫には、継信,忠信,藤の江,浪の江などの子があったが、その藤の江を秀衡の3男・忠衡に娶わせ岳父として同盟関係を築いた。また、飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸が源義経側室とあり、佐藤一族の義経に対する忠節に大きく関係すると考えられる。 |
治承4年(1180年)、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月19日の条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、一人の僧侶を招き千株松の根元に葬った。また御幸供奉の時に後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「太夫黒」を僧侶に与えた。『吾妻鏡』は「これは戦士を慈しむ手本である。これを美談としない者はない。」と書いている。『源平盛衰記』によると享年は28(佐藤氏の菩提寺である医王寺の継信の石塔には享年36とある)。高松市牟礼町洲崎寺に継信と太夫黒の墓がある。 |
| 佐藤信則 | 佐藤堅忠 |
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戦国時代の美濃国の武将。はじめ斎藤道三と子の斎藤義龍に仕えた。その後、佐藤忠能と共に織田信長の家臣となり、美濃国内の一揆を鎮圧した。 |
伊深佐藤氏の祖。同じ佐藤一族である加治田城主の佐藤忠能と共に行動した。堂洞合戦、関・加治田合戦の後、織田信長の要請を受けて佐藤忠能の養子となり、斎藤利治が城主になるとその同族として行動した。 |
| 佐藤継成 | 佐藤成次 |
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関ヶ原の戦いの後より徳川家康に仕え、慶長15年(1610年)9月25日に美濃国加茂郡において1000石を領する。大坂の役(大坂の陣)にも従い、その後に、徳川秀忠に仕えた。 |
江戸時代の旗本、伊深佐藤氏旗本2代目(旗本寄合席)。別名は吉次。 |
| 佐藤元清 | |
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南北朝時代の武将。伊勢佐藤氏は奥州藤原氏の末裔とされている。 |