松永久秀の弟。兄・久秀と同じく三好長慶の家臣となった。 天文18年(1549年)7月、江口の戦いに勝利した三好長慶が細川氏綱を擁して上洛すると、同年9月には長頼は細川氏綱より山城国山科七郷を与えられ、また同年、天龍寺領西岡長井荘の下司職に就任した。天文19年(1550年)7月、京都を追われた将軍・足利義輝や細川晴元が近江国の六角定頼とともに京都に攻め込んだが、戦線は膠着し、同年11月、長頼が近江国坂本に侵攻して放火、三好方の挟撃を恐れた義輝は中尾城を焼いて堅田に退いた(中尾城の戦い)。天文20年(1551年)2月、長頼は兄・久秀とともに近江に攻め込んだが敗北した。同年7月、細川晴元方の三好宗渭,香西元成が3,000の兵で京都に攻め込むと、久秀・長頼兄弟は摂津・河内・大和から40,000の軍勢を集め、相国寺で打ち破った(相国寺の戦い)。 天文22年(1553年)9月、長頼は久秀とともに丹波国に出陣し、波多野元秀の一族で晴元方に付いた波多野秀親の居城・数掛山城を包囲。その際、晴元方の援軍として現れた香西元成,三好宗渭に背後を突かれ、長慶方の丹波守護代・内藤国貞が戦死した。落城の危機に瀕した国貞の居城・八木城には、国貞の娘婿となっていた長頼が急遽入り、守り抜いた。 内藤氏の家督は、長頼の子で国貞の孫にあたる千勝(のちの貞勝)が継ぎ、長頼はその後見人として八木城に在城した。千勝の家督継承に当たっては、天文22年(1553年)11月、丹波守護格の細川氏綱が奉行人の茨木長隆を通じて、国貞と長頼の契約により長頼の子・千勝が内藤氏の家督を継ぐと丹波の国人らに伝えている。しかし、これでは決着が付かなかったためか、天文23年(1554年)3月、国貞との契約により長頼が家督を継ぐところ、長頼の配慮によりその子の千勝が継ぐと氏綱が説明し、氏綱を支える三好長慶や長頼自身も書状を発給している。長頼はこの直後「松永蓬雲軒宗勝」と名乗り、出家することで内藤家を乗っ取る意思がないと表明したものとみられる。 晴元方の波多野氏との戦いを任された宗勝は、永禄2年(1559年)12月までに波多野秀親や波多野次郎を帰順させて、波多野元秀の八上城を奪っており、八上城には一族の松永孫六が入った。氷上郡黒井城の赤井時家・荻野直正父子も播磨国三木に追ったとみられ、宗勝は丹波のほぼ全域を席巻することとなった。 宗勝は儒学者の清原枝賢と交流があり、その祖父・宣賢が記した『貞永式目抄』を枝賢から与えられている。そこには、永禄2年(1559年)3月付で枝賢が書き加えた奥書があり、「丹州太守蓬雲宗勝」とある。当時、独自の裁定で所領安堵を行うようになり、丹波国内の寺院へ禁制を発給するようになっていた宗勝は、丹波の太守とも称されていた。 永禄3年(1560年)、波多野元秀の与党とみられる丹波牢人が若狭に逃れていたのを、逸見経貴の加勢もあり打ち破った。同年9月には丹後の金剛心院に禁制を出すなどしており、若狭や丹後で軍事行動を繰り返している。また、若狭では武田氏からの自立を目指す逸見氏が武田氏と争っていたが、宗勝は逸見氏に味方した。 永禄4年(1561年)、子の千勝が備前守貞勝と名乗っているのが確認でき、貞勝は永禄3年(1560年)12月までに元服して、名実ともに内藤家当主の地位に就いたと考えられる。しかし、貞勝は何らかの理由で家督から外れ、永禄5年(1562年)には宗勝が備前守を名乗り、内藤家の当主となっていた。こうして内藤氏を継承した宗勝を三好長慶が後見することで、摂津守護代だった長慶は細川氏綱の下で同格だった丹波守護代家・内藤氏を従属させることとなった。 丹波以外でも長慶の下で軍事行動を続け、永禄元年(1558年)5月、義輝・晴元らが近江から上洛を企てると兄と共に将軍山城・如意ヶ嶽で幕府軍と交戦(北白川の戦い)、永禄2年(1559年)と翌3年(1560年)の河内国遠征にも従軍、永禄5年(1562年)の畠山高政との戦い(教興寺の戦い)にも丹波国衆を率いて出陣しており、三好政権下の有力な軍団長であったといえる。 永禄4年(1561年)6月、宗勝と逸見氏は若狭高浜の戦いで、武田氏とそれに加勢する越前の朝倉氏に敗れた。そのため、丹波の何鹿郡衆は、再興を目指す赤井氏,荻野氏方になったものとみられる。永禄5年(1562年)、波多野元秀も多紀郡内の土豪らに諸役免除の文書を発給し始めており、勢いを取り戻していた。 永禄7年(1564年)7月に三好長慶が死去して、養子の義継が三好氏の家督を継ぎ、永禄8年(1565年)5月、軍勢を率いて上洛した義継が将軍・義輝を殺害するという永禄の変が起きた。同年8月2日、宗勝は荻野直正と戦って敗れ、700の兵(『言継卿記』によると260名)とともに討死した。場所は天田郡・何鹿郡のいずれかとされる。この後、永禄9年(1566年)2月に、松永孫六が波多野元秀により八上城を奪い返されており、三好氏は丹波を失うこととなった。内藤氏の家督は子の貞弘(如安)が継いだ。
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「如安」はキリスト教の洗礼名ジョアンの音訳名で、諱は貞弘,忠俊。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波国の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後、浪人して最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された。 天文19年(1550年)頃、三好氏重臣である松永久秀の弟・松永長頼の息子として生まれる。父・長頼は三好長慶の下、部将として活躍し、丹波守護代である内藤国貞の娘婿となっていた。国貞の討死後、長頼は内藤氏の居城・八木城に入り、子・千勝(貞勝)を内藤氏の家督として、その後見を務めた。この後、永禄5年(1562年)には長頼が内藤備前守宗勝と名乗って当主の座についていた。 三好氏による丹波支配を任された長頼は、永禄2年(1559年)12月には波多野元秀の八上城を陥落させ、黒井城の赤井時家・荻野直正(赤井直正)父子も播磨国三木へと追って、丹波平定を成し遂げたが、永禄8年(1565年)8月、勢力を回復した荻野直正によって討ち取られた。また、この年の春、如安はルイス・フロイス、またはガスパル・ヴィレラによりキリスト教に入信している。 長頼死後、内藤氏の影響力も低下した。永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、永禄12年(1569年)4月、如安は織田信長の後ろ盾により姫宮岡御所領である佐伯荘の代官職を認められた。また同じ月に、宇津氏により押領されていた八木城周辺の10ヶ.村が、信長の命で如安の管轄とされている。この頃から、織田権力の後援の下で徐々に勢力を拡大していった。 織田信長と足利義昭が対立するようになった元亀4年(1573年)3月、如安は2,000の兵を率いて義昭の警固のため上洛した。上洛した如安は「備前守」を称しており、この時には内藤氏の惣領の地位にあったと考えられる。信長との対決間近となった義昭は、如安に丹波の城を提供するよう求めたが、如安は義昭の軽挙をたしなめ信長の敵とならないよう助言したという。しかし、信長との戦いを選んだ義昭は槇島城へと移り、信長軍に敗れて追放された(槇島城の戦い)。この頃、如安は細川藤孝を通じて信長とも連絡を取っており、義昭とは行動を共にしなかった。 この後、天正2年(1574年)には、如安はルイス・フロイスとロレンソ修道士を丹波に招いている。 天正3年(1575年)6月、織田信長は元亀4年(1573年)以来出頭してこないとして内藤氏と宇津氏の討伐を掲げ、明智光秀を丹波に派遣している。この頃の如安の動静は不明だが、光秀による攻撃、あるいは退城勧告などにより八木城は光秀の手に渡ったと考えられる。 如安はこの後、天正9年(1581年)4月には備後国鞆の足利義昭のもとにいた。その後、肥後国で小西行長に仕え、重臣に取り立てられた。天正18年(1590年)、肥前国有馬で行われたコエリョの葬儀に行長の名代として参加しており、この頃から小西姓を名乗っている。 天正20年(1592年)に始まる文禄の役では、如安は明との和睦交渉の使者となり、北京へ赴いて万暦帝に拝謁した。この時、如安は小西飛騨守と名乗っており、当時の朝鮮の高官・柳成竜が記した『懲毖録』では「小西飛」と表記されている。 慶長5年(1600年)9月、主君・行長は関ヶ原の戦いで西軍として戦い、処刑された。行長が支配した肥後南部は加藤清正の支配下に置かれ、キリシタンを含む小西旧臣たちも清正に召し抱えられたが、清正はキリシタンたちに棄教を迫った。このため、如安は肥後を離れることとなる。 慶長8年(1603年)頃、如安は加賀前田家に客将として迎えられ、4,000石を与えられた。前田家にいたキリシタン・高山右近の執り成しによるとされる。 慶長18年(1613年)12月、徳川幕府より伴天連追放令が出された。翌慶長19年(1614年)1月、如安は妻や4人の子、長男・トマスの子4人や高山右近らと共に近江国坂本へ移送され、その後長崎に移された。同年9月24日、如安は高山右近や妹のジュリアたちと共にルソン島のマニラに追放された。到着先のマニラでは礼砲とともに迎えられるなど、総督らによる手厚い歓迎を受けた。 寛永3年(1626年)、如安は死去した。マニラの聖ヴィンセント・デ・ポール・パリシュ教会に終焉の地の記念碑が建てられている。如安が縁となり、八木城のあった旧・八木町とマニラは姉妹都市となり、八木町合併後の南丹市も姉妹都市提携を継続している。
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