F907:内藤行俊 | 藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤時信 | F908:内藤時信 | ● |
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内藤盛貞 | 内藤武盛 |
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肥後守盛貞のとき、はじめて大内氏に属した。盛貞は大内盛見,持世に属して活躍、大内氏の勢力拡大に尽力し、長門国守護代に任じられた。以後、内藤氏は陶・杉氏に次ぐ大内氏三家老の地位を確立していった。 |
武盛のとき応仁の乱が勃発し、大内政弘は山名持豊に味方して上京、西軍の中心勢力として重きをなした。武盛の弟・弘矩は政弘に従って在京、諸所の合戦に活躍した。政弘が京都に滞陣していた文明2年(1470)、政弘の伯父・大内教幸(道頓)が東軍に通じて挙兵し、これに内藤武盛,仁保盛安,吉見・周布氏らが加担した。この乱に、京都滞陣中の諸将の間に動揺が走ったが、留守を守る陶弘護の活躍で乱は鎮圧され、翌年、教幸は滅亡した。乱ののちに帰国した弘矩は、陶弘護とともに政弘の留守をまもった。 |
内藤弘矩 | 内藤弘春 |
応仁の乱のため上京した大内政弘に従い、弘矩は在京、諸所の合戦に活躍した。長期にわたり上洛し不在だった政弘に対して、1470年(文明2年)に叔父の大内教幸(道頓)が謀反を起こし、それに兄の内藤武盛が加担する。しかし乱は陶弘護らの活躍により鎮圧されたため、弟の弘矩が武盛に代わって父の跡を継ぎ内藤家の当主となった。 |
明応4年(1495年)讒言を信じた大内義興により、兄の弘矩とその子弘和が誅殺されたため、急遽家督を継ぐことになる。明応6年(1497年)義興の下で長門守護代となる。
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内藤興盛 | 内藤隆世 |
伯父の内藤弘矩は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言により謀反の疑いがかけられ、その子・弘和と共に大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で弘矩の弟で興盛の父・弘春が家督を継承することになる。興盛は弘矩の娘を娶り、内藤氏の当主となる。 |
父・内藤隆時が早世していたため、天文20年(1551年)、陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父・興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。 |
内藤隆春 | 内藤元盛 |
姉の尾崎局が毛利元就の嫡男・隆元の正室であった関係もあり、毛利氏との関係が深かった。天文20年(1551年)の陶晴賢の大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)に際しては、父と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。 |
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、毛利氏は徳川方に従って参陣するが、万が一、豊臣方が勝利したときに備え、輝元と執政の毛利秀元の密命を受けた元盛は名前を佐野道可と変え、軍資金と兵糧を持参し大坂城に入城する。元盛が選ばれた背景には、実母が輝元の叔母、養父にあたる内藤隆春が輝元の伯父であり、従兄弟にあたる輝元の代理になり得る立場にあったこと、当時内藤家が元盛の実兄・宍戸元続の仲介で主家から借財をしていたことが挙げられる。 |
内藤元珍 | |
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦後に家督を継ぐ。父・内藤元盛(佐野道可)が大坂の陣にて独断で豊臣方について大坂城に入城したが(主家の意向を受けたとも言われる)、落城して逃走中に捕らえられて切腹させられた佐野道可事件で、徳川氏により京都に呼び出された際、特に弁明できなかったが、大坂城に入城しなかったため許されて帰国した。 |