<藤原氏>北家 秀郷流

F901:藤原秀郷  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 刈田経元 F906:刈田経元

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白石宗実 白石宗直

 天文22年(1553年)、伊達氏の家臣・白石宗利の子として誕生。祖父・宗綱が伊達晴宗に仕え、宗実は伊達輝宗の頃から伊達氏に仕えた。
 天正11年(1584年)、輝宗・政宗父子に従って相馬氏との戦いに従軍。天正12年(1585年)、主君・政宗が伊達氏から離反した大内定綱の小手森城を攻めた際に、これを破るのに貢献した。その後、先代・輝宗が二本松義継に殺害されたことにより二本松氏と激しい抗争が繰り広げられたが、相馬義胤から和睦勧告の提示を政宗に取り次ぎ、和睦成立に貢献した。その後の人取橋の戦いでも武功を挙げた。これらの功績により天正13年(1586年)、定綱の旧領・安達郡塩松33邑を加増され、先祖伝来の白石城から移って宮森城主となった。天正16年(1589年)、伊達氏と蘆名氏が南奥の覇権を巡って争った摺上原の戦いにも参加し武功を挙げた。
 天正18年(1591年)、豊臣秀吉に臣従していた主君・政宗は、葛西大崎一揆鎮圧後、岩出山に移封となることになった。宗実の所領であった安達郡は没収されることになったため、代わりに胆沢郡水沢城主を任され15,000石の所領を与えられた。
 文禄2年(1593年)より、豊臣氏による文禄・慶長の役に参加し、朝鮮へ渡海した。慶長4年(1599年)、朝鮮からの帰国直後、山城国の伏見において死去した。享年47(一説には55とも)。
 宗実には男子がなかったため、娘婿の梁川宗直(梁川宗清の長男)が、白石氏の家督を継いだ。
 政宗が14歳の時、気持ちを引き立てさせるために、9歳になる一人娘を男装させ、仕えさせた。のちに政宗は、この宗実の娘に白石宗直を入嗣させた。

 登米伊達家初代当主。天正5年(1577年)、伊達氏の家臣・梁川宗清の子として誕生。慶長4年(1599年)、岳父・白石宗実の養子となり胆沢郡水沢城主となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは上杉景勝の領地となっていた白石城の攻略戦,慶長出羽合戦で最上義光の援軍として活躍した。
 同年、主君・伊達政宗の命を受け、南部氏に反乱を起こした和賀忠親を支援する(岩崎一揆)。ところが、この一件により伊達家は徳川家康との禄高100万石加増の約束「百万石のお墨付き」が反故にされたため、慶長9年(1604年)、宗直は責任を取って登米郡寺池城へ転封となった。同地では、城下町の発展や河川の整備などに積極的に取り組み、領地を大いに発展させた。
 大坂の陣では宇和島で政宗の長男・伊達秀宗を出迎え、道明寺の戦いなどで大いに功を挙げ、元和2年(1616年)には伊達姓の名乗りを許された。これにより宗直の系統は登米伊達家と呼ばれるようになる。
 寛永6年(1629年)に、53歳で死去。大正7年(1918年)には、正五位を追贈された。

白石宗貞 伊達宗倫

 慶長2年(1597年)、伊達氏家臣・梁川宗直の長男として生まれる。慶長4年(1599年)に母方の祖父・白石宗実が死去すると、宗直が白石家を継ぐことになる。元和2年(1616年)7月に白石家は伊達姓の名乗りを許された(登米伊達家)が、寛永6年(1629年)7月、宗直は藩主・伊達政宗の勘気を蒙って仙台への出頭を命じられ、査問を前にして死亡した。このため登米家は存続の危機に陥ったが、翌寛永7年(1630年)に政宗は白石家から伊達姓を剥奪し、家格を一門から一家に降格することでこの一件を落着させ、宗貞に父の遺領15000石の相続を許した。この時、1430石を弟・宗元に分知し、梁川家を再興している。
 慶長16年(1611年)に、父・宗直が北上川に築いた堤防(相模土手)に続いて、若狭土手を築き治水に努めた。
 寛永17年(1640年)、藩主・伊達忠宗は男子のいなかった宗貞に対し、白石家に再び伊達姓の名乗りを許す代わりに自らの4男・五郎吉を婿養子に迎えて隠居するよう命じる。宗貞には隠居領として登米領から遠田郡米岡3000石を分与され、白石の姓に復した宗貞には改めて一家の家格が与えられた。
 寛永21年(1644年)4月11日、仙台城下の屋敷にて死去した。享年48。
 米岡の隠居領は、角田石川家から石川宗敬の2男・宗信を婿養子に迎えての存続が許された(同年8月に夭逝した五郎吉に嫁いでいた長女・龍雲院が再嫁)。 登米伊達家の菩提寺である寺池の養雲寺と隠居領の米岡の長源寺に、それぞれ宗貞の墓がある。

 寛永17年(1640年)4月3日、仙台藩2代藩主・伊達忠宗の5男として誕生。寛永21年(1644年)8月に登米伊達家を継いでいた同母兄の五郎吉が死去すると、翌正保2年12月2日(1646年1月)にその跡取りとして迎えられ、4代当主となる。慶安3年(1650年)2月18日、元服して宗倫と名乗る。万治3年(1660年)7月、異母弟で3代藩主・綱宗の隠居願に他の一門・重臣と共に署名する。この時、藩内には次期藩主として宗倫を推す声もあったが、結局は綱宗の長子・亀千代(のちの綱村)が4代藩主となっている。
 宗倫は新田開発に力を注ぎ、相続時には1万570石であった知行高を万治年間には1万2168石に伸ばし、最終的には1万4152石まで増加させている。しかし、その結果として野谷地(未開発地域)が減少したことで隣接する他領との緩衝地帯が消滅したため、寛文年間に入ると同様に盛んな新田開発を進めていた涌谷伊達家当主・伊達宗重との間で境争論が頻発するようになる。登米伊達家は寛永年間に袋中地方をめぐる佐沼城主・津田氏との争論において屈従を強いられた過去があり、宗倫は争論に臨んで強硬な姿勢を示すことが多かった。
 寛文5年(1665年)に発生した登米領の登米郡赤生津村と涌谷領の遠田郡小里村との間の争論では、宗重が妥協して宗倫に係争地を譲ったが、寛文7年(1667年)10月に発生した登米領の桃生郡大窪村と涌谷領の遠田郡二郷村との間の争論は、対象が当初の2ヶ村の問題から郡境の広い範囲に拡大したこと、両者の主張する領分が大きく食い違ったこと、さらには郡境を示す明確な証拠である『正保国絵図』の控えが失われていたことが相まって、容易に決着しなかった。そのため宗重からは、両家合同での検分により郡境を確定したいとの申し入れがあったが、宗倫は仙台本藩による裁決によって決着したいと回答し、寛文8年(1668年)4月に本藩に対し検分役人の派遣を要請した。この時は幕府の国目付が在国中であることを理由に要請を差し止められたが、一門の石川宗弘,伊達宗敏による仲裁も効果なく、宗倫は国目付が仙台を離れた翌寛文9年(1669年)2月に再び訴えを起こした。
 訴えを受けた本藩後見役の伊達宗勝(一関藩主),田村宗良(岩沼藩主)の両名は、同年5月23日に大老・酒井忠清,前柳川藩主・立花忠茂の内諾を得て、野谷地の3分の2を登米領に、3分の1を涌谷領に振り分ける裁定を下した。宗倫・宗重は共に一応の不服を訴えたものの両者とも裁定に従い、同年7月に検分が開始されたが、宗勝の威を笠に着た検分役の今村安長が裁定に反して涌谷領分を5分の1未満に削り、抗議した涌谷家中に対して無礼を働いた。これに激怒した宗重が宗勝一派のそれまでの不正の数々を幕府に上訴するに至り、寛文11年(1671年)3月の酒井忠清邸での刃傷沙汰(狭義の伊達騒動)へと発展する。この争論が騒動の最終局面への引き金となったため、宗倫の騒動における立ち位置は宗勝派の側に分類されることが多いが、宗倫は宗勝派の中心人物の一人である津田景康との間にも、寛文2年(1662年)に断絶した米岡白石家の旧領をめぐる争論を抱えており、単純に宗倫を宗勝派と見なすことはできない。
 寛文10年(1670年)1月15日、前年に行われた亀千代の殿上元服への御礼のため藩主名代として江戸に赴き、4代将軍・徳川家綱に拝謁したが、帰国直後に病に倒れ、2月10日に仙台で死去した。享年31。家督は同年5月に入嗣した綱宗の子・熊之助(村直)が相続した。宗倫は登米伊達家の菩提寺である養雲寺ではなく、自身が再興した寺池の覚乗寺に埋葬された。寛文12年(1672年)に完成した宗倫の霊屋(天山廟)は「覚乗寺高台院霊屋」として、宮城県より文化財指定を受けている。 

伊達村良

 寛保3年(1743年)4月29日、仙台藩5代藩主・伊達吉村の8男として誕生。幼名は政五郎。宝暦2年(1752年)、同母兄で登米伊達家8代当主・伊達村勝が陸奥一関藩3代藩主・田村村顕の養嗣子として迎えられることになったため、村勝に代わって登米伊達家9代当主となる。家禄平均法を施行し、財政の立て直しを行った。養蚕の奨励,琵琶湖からの鯉や鮒の移入なども行った。
 明和3年(1766年)、薩摩藩8代藩主・島津重豪への対抗意識から猟官運動に狂奔していた甥で7代藩主・伊達重村が、幕閣の歓心を買うために手伝普請を積極的に引き受け、その費用を捻出するため家禄30石以上の藩士に年貢米の一部上納を命じた。村良はこれを中止するよう諫めたが、重村の勘気を蒙って50日間の蟄居を命じられた。
 安永2年(1773年)の安永疑獄に際しては、岩谷堂伊達村富から計画への参加を持ちかけられたがこれを拒否。事件発生を知ると直ちに居館の登米要害から仙台へ上り、重村に事件の再審査を請求した。
 天明6年12月2日(1787年1月20日)死去。享年44。長男・村資は兄の養子として天明2年(1783年)に一関藩主となっており、4男・村幸が家督を相続した。