<藤原氏>北家 魚名流 ― 末茂流

F897:綾 章隆  藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 藤原顕季 ― 藤原家保 ― 綾 章隆 ― 香西資村 F898:香西資村


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香西資村 香西元資
 承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後、羽床氏は香西氏の傘下に入った。 

 細川京兆家の内衆。丹波守護代。
 応永21年(1414年)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に父である香西豊前入道常建とともに列席している。常建は香西氏の人間で細川京兆家に仕えたことが確認できる最初の人物である。応永32年(1425年)12月30日には丹波守護・細川満元の奉行人奉書で東寺領同国大山庄の臨時人夫役の停止を命じられている。また、翌33年(1426年)3月4日に又守護代と見られる籾井民部玄俊へ遵行状を出して満元の命を遵行しており、丹波守護代の役目を果たしている。
 永享3年(1431年)7月24日には、満元の跡を継いで丹波守護となっていた細川持之が足利義教に丹波守護代交代の件を願い出ている。しかし、義教は元資による守護代としての失政を責め、処罰するように命じている。翌年(1432年)5月には内藤備前入道が丹波守護代に交代していることから、これまでには処罰されていたと考えられる。また、同年9月には「香西豊前入道常慶」が清水坂神護寺領讃岐国坂田郷の代官職を罷免されており、これも元資のことであるとされる。
 元資の子孫は嘉吉年間に讃岐国三野郡仁尾浦・坪江郷の代官を務めた豊前(豊前入道)と陶保の代官を務めた美濃守とに分かれた。 

香西元長 香西元盛

 香西氏は元来讃岐国の武士であるが、元長の父・香西元直の頃には京都へ詰めるようになり、讃岐の領地は元直の弟が継承している。明応6年(1497年)、元長は山城国守護代に任ぜられた(守護は伊勢貞陸)。
 永正元年(1504年)、元長と同じ細川氏の家臣である薬師寺元一が主君・細川政元を排し、その子・澄元を擁立すべく謀反を起こした際は、元一の弟・薬師寺長忠と共に元一の居城・淀古城を攻めている(第一次淀古城の戦い)。
 永正3年(1506年)9月7日、元長は細川政元に背き、京都で蜂起した。幕府は、大和国にいた三好之長を呼び戻し、元長攻めに向かわせた。また、元長の背後には、摂津国守護代・薬師寺長忠もいた。永正4年(1507年)に細川政元の丹波国出陣に際して役銭供出を拒否した賀茂社を焼き討ちしている。元長は、細川政元の後継者を巡る争いでは細川澄之を支持していた。そこで、同年6月23日に元長は間諜である竹田孫七を使い、主君の政元をその行水中に襲って暗殺した(永正の錯乱)。翌24日、澄之・元長らの軍勢は細川澄元邸を攻め、澄元や三好之長らを近江国に追いやった。しかし、翌25日の合戦で元長の弟である元秋と元能が戦死している。同年7月8日、幕府は、澄之を細川家の後嗣と定めたが、細川澄元方は態勢を立て直し、もう一人の政元の養子・細川高国も澄元方に加わった。同年8月1日に細川高国,政賢,尚春によって京都にある細川澄之邸が攻撃されると澄之は自害し、元長と薬師寺長忠は討ち死にした。
 細川家の嫡子となった澄元を補佐していた三好之長は自派の勢力を拡大して、元長の出身地である讃岐にまで政治介入をしていた。また、元長は政元の性格に不安を覚えだしており、しかも自らが補佐していた澄之に家督相続の望みがほとんど無くなったことから、之長の勢力が細川家中で増大したことを憎悪して、澄之を擁立して権力を手に入れるために政元を殺害したのである。ただし、信憑性が高いとされる『不問物語』では、元長は療養のために嵯峨におり、事件に関与していなかった(計画者は弟の香西元秋,香西元能であった)とある。 

 丹波国の有力国人である波多野元清の実弟で、柳本賢治の兄にあたる。細川高国の命令により、永正4年(1507年)に香西元長が没した後に当主不在となった香西氏(上香西氏)の名跡を継いだ。元盛は細川高国に仕え、大永4年(1524年)10月、次兄・柳本賢治と共に高国と対立する細川晴元の残党を和泉国で打ち破った。
 しかし、大永6年(1526年)7月13日、細川尹賢の讒言を信じた高国によって上意討ちにされた。元盛は武将としての力量はあったが教養が無く、文盲であったという。このため尹賢は元盛が細川晴元や三好元長に対して内通を約しているという偽造文書を作り上げて高国に讒訴し、それを高国が信じたのが事の起こりとされる。
 死後、兄の元清,弟の柳本賢治らが高国の暴挙に激怒して挙兵し(桂川原の戦い)、この事件は高国政権崩壊の契機となった。なお、この戦いでは柳本賢治の弟である香西源蔵が17歳で戦死したと伝えられているが、この人物は波多野家の出身ではなく、柳本氏か(賢治が最初に養子に入った)岩崎氏より、賢治の推挙によって香西氏の当主に立てられたとみられる。 

香西長信 香西元秋

 応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では、当主の香西元資が東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、「細川四天王」と呼ばれた。元資の長男・元直は常に京都にあって勝元を補佐したため、讃岐の領地は元直の弟・香西元綱が相続し、香西氏は元直系の上香西氏、元綱系の下香西氏に別れた。香西越後守は丹波国を拠点に三好政長・政勝父子と共に畿内の各地で三好長慶と戦った香西元成の通称であったが、永禄3年(1560年)、山城国炭山城で元成は討死した。香西越後守長信はその跡を継いだと思われるがはっきりとしない。
 元亀元年(1570年)、香西長信と三好政勝は三好政権の傘下にあり、元亀元年(1570年)に織田信長が三好三人衆を攻めた野田・福島の戦いでは三人衆方として参戦した。しかし、2人は織田軍に内応しており、城中に織田軍を引き入れる謀略をすすめていたが、城中の警固は思いのほか厳しく断念し、8月28日に両名は城を脱出して天王寺の織田軍へ走った。その後、9月12日夜半に石山本願寺が織田軍を襲撃、9月23日に織田軍が山城国に向けて撤退を開始、9月27日には篠原長房が率いる阿波国・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸している。
 織田方についた政勝は元亀3年(1572年)の松永久秀と細川昭元の抗争において松永方に属しており、信長が庇護していた昭元を攻めている。また、長信も三好方に復帰しており、天正3年(1575年)4月8日、信長が三好康長の籠る高屋城を攻めると、十河一行と共に新堀城の守将として織田軍と戦った。しかし、新堀城は4月19日に落城し十河一行は討死、長信は生け捕りにされ斬首された(高屋城の戦い)。 

 『後法興院記』明応4年(1495年)10月26日条によれば、元秋は兄の元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始している。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書を見るに、元秋が紀伊郡の郡代・生夷景秀などの諸郡代と元長との間に位置し、香西氏の家政を執っていたと考えられる。また、「九条家文書」によると九条家の申し出を受け、同家領への半済停止を元長へ取り次いでいる。九条家との関わりは、元長が政元の養子である細川澄之(九条政基の実子)に与していたことと関連していると考えられる。
 永正4年(1507年)6月23日に元長が家臣を使って主君の細川政元を暗殺すると(永正の錯乱)、元秋も兄に従った。ただし、『不問物語』では元秋と元能が主犯格であり、元長は暗殺の後に合流したという。翌24日には細川澄元邸を攻め、澄元や三好之長等を近江国に追いやったものの、京都百々橋での合戦で弟の元能とともに戦死した。 

香西元成 香西元載

 讃岐国勝賀城主。細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏や三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。天文18年(1549年)の江口の戦いにおいては摂津国三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京から近江国へ追われることになる。それからは三好政長の子の宗渭・為三兄弟と行動を共にして丹波国を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551年)3月に宗渭と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後、7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。
 天文22年(1553年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が細川晴元支持を表明すると、7月に京都へ進み義輝・晴元と合流、8月に霊山城が落とされ義輝らが近江へ逃れた後も反長慶の姿勢を崩さず、9月に三好宗渭,波多野元秀と組んで丹波守護代・内藤国貞を討ち取り八木城を奪ったが、松永長頼に奪い返された。播磨国国人の明石氏と結託したが、こちらも天文24年(1555年)に長慶に降伏、かえって長慶の勢力拡大に繋がった。その後も長慶に徹底して対立・抵抗したが、永禄3年(1560年)、山城国炭山城で三好氏と戦い討死した。
 三好宗渭,為三らと共に織田信長と戦い、元亀元年(1570年)の野田・福島の戦いで降伏した後、再び本願寺に味方して天正3年(1575年)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」は、名乗りから考えて元成の後継者と考えられるが、その素性は明らかでない。 

 香西氏は累代細川氏に仕え細川四天王と称され、同族の新居氏,羽床氏,植松氏を従え、東讃の守護代であった安富氏を凌ぐ勢力を誇ったが、天文22年(1553年)、先代・香西元政の時に三好長慶の弟・実休,十河一存に攻められ降伏し、元載は十河一存に仕えた。
 永禄5年(1562年)、香川氏,奈良氏,安富氏,寒川氏と共に和泉国岸和田城に入り、三好実休に率いられ讃岐衆として畠山高政と戦ったが敗れている(久米田の戦い)。しかし、続いて行われた教興寺の戦いにおいては、幼年の十河存保を補佐として讃岐勢を率い軍功を挙げた。
 その後、『南海通記』による記録では、元亀2年(1571年)春、元載は小早川隆景と同盟を結び浦上方の児島を攻めるため、3,500の兵を率い渡海した。児島日比浦の国人・四宮隠岐守の案内で備前児島に上陸、賀陽城(通生)を落とし、香西家重臣の植松往正が敵将の吉田右衛門尉を討ち取った。しかし、続いて本太城を攻めたところ、霧の中で守備兵の反撃に遭い香西元載は戦死した(本太城合戦)。 

香西佳清 植松往正

 父は香西元成とも、元成の子・香西元載の子ともいわれる。香西氏は細川四天王の一家であったが、天文年間の三好氏の讃岐侵攻により三好実休、十河一存兄弟に従っていた。
 永禄11年(1568年)、香西又五郎(元載)が備前児島の本太城を攻めるも、毛利氏の傘下にいた能島村上水軍の家臣・島吉利に敗れ戦死したため、その頃に家督を継いだと思われる。元亀元年(1570年)、野田・福島の戦いに三好三人衆方として参陣したおりに疱瘡に罹り、失明した。「盲目の大将」と呼ばれた。
 佳清は三好方として転戦し、元亀2年(1571年)5月には、毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の要請に応じ、三好家の重臣・篠原長房が阿波・讃岐の兵を率いて備前児島を攻めるとこれに参陣。元亀4年(1573年)、三好長治と十河存保が篠原長房を誅殺した上桜城の戦いにおいて主力となった讃岐勢として家臣の植松資久を派遣し、長房の子・篠原長重を討ち取った。
 その一方で、寒川氏に迫り讃岐大内郡4郷を縁戚の安富氏に割譲させ、三好氏の基盤を強化するなど強権をふるう三好長治に対し、天正2年(1574年)春、佳清は香川之景と連判で長治の実弟・十河存保に長治ら阿波勢を非難し離反を警告する申し入れを行った。これに対し同年10月、三好長治は讃岐に出兵し香西氏を攻めたが、大西氏・長尾氏・寒川氏ら主だった讃岐衆も香西氏・香川氏に加勢、また土佐国の長宗我部元親が三好方として参戦していた海部友光の不在の隙をつき阿波南部の海部城を包囲したため、長治は撤退。更に天正3年(1575年)に畿内において高屋城の戦いが起こり、河内国高屋城と摂津国新堀城が落城し、三好康長が織田信長に降伏した。これにより、三好氏は畿内の拠点を喪失し勢いが衰えてくると、天正4年(1576年)に香西佳清の使者として新居資教が、香川之景の使者として香川元春が織田信長に謁見し、香川氏と香西氏は揃って織田氏に従属した。
 この頃、長宗我部氏を警戒し、新たに藤尾山に藤尾城を築き、勝賀城(佐料)から本拠を移した。ところがこれ以降、香西氏は内輪もめが続いた。天正6年(1578年)に妻との離縁により義父で香西氏に付いていた羽床資載が離反し、抗争に発展。 また、家督相続をめぐり、佳清の弟・千虎丸の相続を支持する同族の香西清長の子・清正が佳清派の新居資教,植松資正を成就院にて殺害し(成就院事件)、植松氏(往正・資久など)の報復により佳清派が優勢となると清長父子は備前国に退去させられた。
 その間に長宗我部氏が台頭し、天正10年(1582年)には、長宗我部元親の子・香川親和を大将とする軍が佳清の居城・藤尾城に向けて大規模な侵攻を行った。この侵攻に対し、香西資淳・植松往正の奇襲で一時足止めに成功したものの、城下の伊勢馬場および西光寺表で敗れ落城寸前に追い込まれた。しかし、既に長宗我部に従い、親和の養父となっていた香川之景が仲裁に入ったため、佳清は長宗我部氏に臣従することを受け入れて降伏した。天正13年(1585年)に羽柴秀吉による四国攻めが始まると、長宗我部方として戦い、攻め手の小西行長隊に大砲による砲撃で応戦するなど奮闘したものの、敗れて下野したという。以後は「宗可」と号し、讃岐の国主となった仙石秀久や生駒親正から扶持を与えられて余生を過ごした。天正16年(1588年)に死去。享年36。 

 植松氏は讃岐東部(東讃)の有力国人・香西氏の庶流で、父・植松備後守資正と同様に、往正も香西元載・佳清に仕えた。
 永禄11年(1568年)または元亀4年(1573年)、讃岐勢が宇喜多直家の備前国児島の賀陽城(通生)を攻めると、父と共に従軍し、敵将の吉田右衛門尉を討ち取った。しかし次いで本太城(塩生)を攻めた時に、讃岐勢を率いていた香西元載が戦死したため、讃岐勢は引き上げた。天正元年(1573年)11月13日、往正は元載の子・香西佳清から感状を賜っている。佳清は若年にして盲目であったため、新居資教(香西大隅守)と父が家老としてこれを補佐した。
 天正4年(1576年)、香西佳清の使者として新居資教が、香川元景の使者として香川元春が織田信長に謁見し、香川氏と香西氏は揃って織田家に降っている。更に、天正年間には、往正も信長に謁見した。天正6年(1578年)1月11日、香西佳清の弟・千虎丸の香西氏相続を支持する香西清長が、新居資教と父・資正を成就院にて殺害した(成就院事件)。この時、往正は73歳にして従者2人を従え、敵15人と渡り合い8人を斃したという。往正・資久兄弟は直ちに香西城を押さえ、香西清長が籠もる作山城を囲み、備前中島に追放した。その後は父や離反した羽床資載に代わって、往正が香西佳清の重臣となり、讃岐・阿波を転戦した。
 天正10年(1582年)7月、長宗我部元親の子・香川親和が、羽床資載と土佐国・伊予国・阿波国の兵を加えて香西佳清の領内に侵攻し、佳清が長宗我部氏に降ると、往正は十河存之が守る十河城攻めに加わった。天正13年(1583年)5月、豊臣秀吉による四国攻めが起こると、往正は香西佳清の後妻を警護した。
 その後の消息は不明であるが、子・往忠は、生駒一正に仕え、朝鮮出兵において戦功を挙げ、感状並びに領地を得て、さらに関ヶ原の戦いで戦功を挙げている。 

植松資久 香西成資

 父・植松備後守資正や兄・往正と同様に香西佳清に仕えた。元亀4年(1573年)、三好長治と十河存保がその重臣・篠原長房を攻めた上桜城の戦いにおいて讃岐勢として参戦、長房の夜襲を受け存保を守り、長房の嗣子・長重を討ち取った。
 天正6年(1578年)、十河存保が織田信長と結び三好家を継ぐと、資久はこれを祝うため阿波に赴いた。しかし讃岐において香西清長が、香西千虎丸の香西氏相続を支持し、佳清の家老・新居資教と父・資正を成就院にて殺害した(成就院事件)。父を殺された資久は讃岐に取って返した。そして植松兄弟は香西城を押さえ、母方の宮脇氏と共に清長の籠もる作山城を囲んだ。この時、資久の師である地蔵院香西寺の和尚良運法師が仲裁し、清長は備前中島に流された。
 天正10年(1582年)7月、長宗我部元親の子・香川親和が、羽床資載と土佐国・伊予国・阿波国の兵を加えて香西佳清の領内に侵攻すると、資久は新居資淳と共に鉄砲隊で奇襲をかけ撃退した。翌8月にも佳清の陣代・滝宮安資に従い奮戦したが、滝宮は討死し、佳清は長宗我部氏に降った(伊勢馬場・西光寺表の戦い)。同月、長宗我部氏は十河存之が守る十河城を攻めたが、資久はここでも戦功を挙げた。
 才気がありかつ豪勇の士であったため、氏族内の有力な頭領として信頼されていたが、天正12年(1584年)、30歳に達せず病死した。 

 兵法家で歴史家。甲州流軍学を学び筑前黒田家に仕える。また、四国(南海道)の中世史を記した『南海治乱記』『南海通記』の著作でも知られる。
 寛永9年(1632年)、讃岐国香川郡佐料邑にて植松吉兵衛時陰(時信)の子として誕生。長じて武兵衛(『香西記』では庄左衛門)興資と名乗った。筑前福岡に移住してから祖先である豪族・香西元綱の家名を再興し、香西庄兵衛成資と名乗る(のちに庄左衛門)。
 慶安2年(1649年)より兵学者・小早川能久、さらに江戸に上り能久の師・小幡景憲に甲州流軍学を学ぶ。万治2年(1659年)、28歳で免許を得て一時讃岐に帰り、寛文年中に32歳で筑前へ移る。天和2年(1682年)より筑前黒田家に兵法指南として仕える。福岡城南の地平尾山下に7200坪の土地を与えられ、演武堂・兵祖廟を建て門下生を教えた(のちに子の香西資始が隣接地8600坪を得て全体を「軍神山」と位置づけた)。官職を辞した後は本立軒常山と号する。
 また著書も多く、甲州流軍学を記した『甲越戦争記』『甲源武鑑単騎』『武田兵術文稿』や、2人の師に学んだことを振り返った『小幡小早川両師伝』(享保2年〈1717年〉),出身地讃岐を含む四国の中世史を記した『南海治乱記』(寛文3年〈1663年〉)『南海通記』(享保3年〈1718年〉)がある。
 享保6年(1721年)、福岡城南の薬院の自宅で90歳で没する。長崎海軍伝習所に学んだ香西少輔は後裔。 

香西清長
 天正6年(1578年)、子の清正と共に、佳清の弟・千虎丸の香西氏相続を支持し、佳清派の植松資正,新居資教を成就院にて殺害した(成就院事件)。しかし、植松兄弟は香西城を押さえ、母方の宮脇氏と共に清長の籠もる作山城を囲んだ。この時、植松資久の師である地蔵院香西寺の和尚良運法師が仲裁し、香西清長父子は備前中島に流された。