| F897:綾 章隆 | 藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 藤原顕季 ― 藤原家保 ― 綾 章隆 ― 香西資村 | F898:香西資村 | ● |


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| 香西資村 | 香西元資 |
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| 承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後、羽床氏は香西氏の傘下に入った。 |
細川京兆家の内衆。丹波守護代。 |
| 香西元長 | 香西元盛 |
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香西氏は元来讃岐国の武士であるが、元長の父・香西元直の頃には京都へ詰めるようになり、讃岐の領地は元直の弟が継承している。明応6年(1497年)、元長は山城国守護代に任ぜられた(守護は伊勢貞陸)。 |
丹波国の有力国人である波多野元清の実弟で、柳本賢治の兄にあたる。細川高国の命令により、永正4年(1507年)に香西元長が没した後に当主不在となった香西氏(上香西氏)の名跡を継いだ。元盛は細川高国に仕え、大永4年(1524年)10月、次兄・柳本賢治と共に高国と対立する細川晴元の残党を和泉国で打ち破った。 |
| 香西長信 | 香西元秋 |
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応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では、当主の香西元資が東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、「細川四天王」と呼ばれた。元資の長男・元直は常に京都にあって勝元を補佐したため、讃岐の領地は元直の弟・香西元綱が相続し、香西氏は元直系の上香西氏、元綱系の下香西氏に別れた。香西越後守は丹波国を拠点に三好政長・政勝父子と共に畿内の各地で三好長慶と戦った香西元成の通称であったが、永禄3年(1560年)、山城国炭山城で元成は討死した。香西越後守長信はその跡を継いだと思われるがはっきりとしない。 |
『後法興院記』明応4年(1495年)10月26日条によれば、元秋は兄の元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始している。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書を見るに、元秋が紀伊郡の郡代・生夷景秀などの諸郡代と元長との間に位置し、香西氏の家政を執っていたと考えられる。また、「九条家文書」によると九条家の申し出を受け、同家領への半済停止を元長へ取り次いでいる。九条家との関わりは、元長が政元の養子である細川澄之(九条政基の実子)に与していたことと関連していると考えられる。 |
| 香西元成 | 香西元載 |
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讃岐国勝賀城主。細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏や三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。天文18年(1549年)の江口の戦いにおいては摂津国三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京から近江国へ追われることになる。それからは三好政長の子の宗渭・為三兄弟と行動を共にして丹波国を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551年)3月に宗渭と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後、7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。 |
香西氏は累代細川氏に仕え細川四天王と称され、同族の新居氏,羽床氏,植松氏を従え、東讃の守護代であった安富氏を凌ぐ勢力を誇ったが、天文22年(1553年)、先代・香西元政の時に三好長慶の弟・実休,十河一存に攻められ降伏し、元載は十河一存に仕えた。 |
| 香西佳清 | 植松往正 |
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父は香西元成とも、元成の子・香西元載の子ともいわれる。香西氏は細川四天王の一家であったが、天文年間の三好氏の讃岐侵攻により三好実休、十河一存兄弟に従っていた。 |
植松氏は讃岐東部(東讃)の有力国人・香西氏の庶流で、父・植松備後守資正と同様に、往正も香西元載・佳清に仕えた。 |
| 植松資久 | 香西成資 |
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父・植松備後守資正や兄・往正と同様に香西佳清に仕えた。元亀4年(1573年)、三好長治と十河存保がその重臣・篠原長房を攻めた上桜城の戦いにおいて讃岐勢として参戦、長房の夜襲を受け存保を守り、長房の嗣子・長重を討ち取った。 |
兵法家で歴史家。甲州流軍学を学び筑前黒田家に仕える。また、四国(南海道)の中世史を記した『南海治乱記』『南海通記』の著作でも知られる。 |
| 香西清長 | |
| 天正6年(1578年)、子の清正と共に、佳清の弟・千虎丸の香西氏相続を支持し、佳清派の植松資正,新居資教を成就院にて殺害した(成就院事件)。しかし、植松兄弟は香西城を押さえ、母方の宮脇氏と共に清長の籠もる作山城を囲んだ。この時、植松資久の師である地蔵院香西寺の和尚良運法師が仲裁し、香西清長父子は備前中島に流された。 |