<藤原氏>北家 末茂流

F883:藤原家保  藤原魚名 ― 藤原末茂 ― 藤原連茂 ― 六条顕季 ― 藤原家保 ― 藤原成親 F894:藤原成親

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藤原成親 藤原成経

 父・家成が鳥羽法皇の第一の寵臣であったことから昇進は早く、康治元年(1142年)に5歳で従五位下に叙せられる。父と同様に鳥羽法皇の側近となり、鳥羽法皇の葬儀では、信西らとともに入棺役を務めた。
 保元3年(1158年)、右近衛中将となる。成親は妹が藤原信頼の妻となっていた関係から信頼と行動をともにするようになり、後白河院の側近に加わった。後白河院の成親への信頼は厚く、慈円は両者が男色関係にあったとする。
 平治の乱では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・経子が平重盛の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く解官にとどまった。
 永暦2年(1161年)4月、成親は右中将に還任する。美福門院の死後、後白河院政派と二条親政派の対立は激化しており、後白河院は自らの政治基盤の強化を意図していた。二条天皇死後の仁安元年(1166年)正月、成親は左近衛中将に任じられる。後白河院の復権により同年12月には5人の上臈を超えて29歳にして正三位に叙せられた。この年の10月には憲仁親王の立太子が実現し、後白河院は平清盛の後援を得て院政を本格的に開始した。成親は翌年、権中納言となる。平重盛の義兄であることから重盛との関係は親密で、成親の娘はのちに重盛の嫡子・維盛の妻となっている。
 園城寺に早くから帰信して外護者としての立場をとった後白河院に対し、延暦寺は後白河院の寺院政策に不満を抱いていた。嘉応元年(1169年)12月、尾張守・藤原家教の目代だった右衛門尉・藤原政友が、延暦寺領である美濃国平野荘の神人と些細な問題で衝突した。事件自体は小さなものだったが美濃国は延暦寺の荘園が多く、後白河法皇は国司に院近臣を任じて荘園抑止の政策をとっていた経緯もあり、延暦寺は成親の配流と政友の禁獄を求めて強訴を起こした(嘉応の強訴)。成親は家教の同母兄で、尾張国の知行国主だった。後白河法皇は院御所の警備を強化するが、大衆は院御所ではなく内裏に向かい宮中に乱入して気勢を上げた。後白河法皇は官兵を派遣して鎮圧しようとするが、公卿議定では派兵に消極的な意見が大勢を占め、兵を率いる平重盛も出動命令に応じなかったことから、24日成親は解官され、備中国への配流と決定した。しかし28日になると召還され、代わりに検非違使別当・平時忠,蔵人頭・平信範が配流となった。30日、成親は権中納言に還任し、翌年正月には右兵衛督・検非違使別当となる。この措置について九条兼実は、「天魔の所為なり」と評している。
 延暦寺は反発して再び強訴の構えを示し、17日には事態収拾のために清盛が福原から上洛する。六波羅には軍勢が集結し情勢が緊迫すると、成親は後白河法皇に検非違使別当の辞任を申し入れる。2月6日、成親は解官されるが配流は免れた。その後、還任し、7月に右衛門督、12月に左衛門督となり、安元元年(1175年)11月までの長期に渡って検非違使別当を務めることになる。この事件で後白河院の庇護を受けた成親は、失脚の危機を回避しただけでなくその信任ぶりを改めて誇示することになった。院近臣の中核としての地位を確立した成親は、安元元年(1175年)には権大納言に昇進した。
 安元2年(1176年)7月に建春門院が死去したことで、後白河法皇(その近臣)と平家の対立はしだいに顕在化する。安元3年(1177年)4月に延暦寺の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした白山事件により決定的なものとなった。発端は後白河近臣である西光の子・師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。後白河は目代・師経を備後国に流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆(僧徒)は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。後白河は強硬策をとり官兵を派遣するが、翌日警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化する。大衆は激昂し神輿を放置して帰山、朝廷は対応を協議し、4月20日、師高の尾張国配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁と、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。父親の西光については一時配流が決定されたが、実際には後白河の取り成しで許されることになった。延暦寺が師高の流罪を要求して強訴を起こしたのに対して、師高の父・西光は天台座主・明雲の処罰を後白河法皇に進言するなど、院と延暦寺の抗争は激化していた。後白河は平重盛,宗盛に対して延暦寺そのものを攻撃するようにという命令を出すが、容易でない事態と判断した清盛は直ちに福原から上洛し、後白河と会見するが、後白河に押し切られる形となり、近江,美濃,越前の武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。
 延暦寺への出撃直前の6月1日夜半、清盛の西八条邸を多田行綱がひそかに訪れ、西光らが平氏打倒の謀議を行っていたことを密告した。謀議を知った清盛は延暦寺攻撃を中止。平家軍は西光を捕縛、清盛のもとに連行し拷問にかけて全容を自供させてのち斬首した。清盛邸に呼び出された成親も拘束された。事を聞いて清盛邸に来た重盛は、命だけは助かるようにすると妻の兄である成親を励ましたという。西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。4日、俊寛,基仲,中原基兼,惟宗信房,平資行,平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。9日、尾張に流されていた師高は、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺された。成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず、7月9日に崖から突き落とされて殺害された。
 陰謀の真偽は定かではないが、『百錬抄』『愚管抄』によれば平氏打倒の謀議があったことが記されている。ただ、清盛が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。結果的には、山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は修復不可能なものとなっていく。

 後白河法皇に近侍し、右近衛少将兼丹波守になり丹波少将と呼ばれた。
 安元3年(1177年)、父の藤原成親が平家打倒をはかって、院近臣の西光,俊寛らと鹿ヶ谷の山荘で密議を行ったが、密告により陰謀は露見してしまう(鹿ケ谷の陰謀)。 平清盛は関係者全員およびその近親の捕縛を決めるが、清盛の弟の教盛は成経の舅だった。教盛は六波羅の清盛に哀願して、成経の身柄は一時教盛の邸で預かることが許された。『平家物語』には成経が御産も間近な妻と身の不幸を嘆きあい、娘婿の成経の助命のために清盛に必死に乞請する教盛の様子が描かれている。
 関係者の処罰が決まり、首謀者の西光は斬罪、成親は備前国に流罪となる(後に謀殺)。成経もこれに連座して備中国へ流されるが、更に俊寛,平康頼と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。 翌治承2年(1178年)教盛の嘆願もあって中宮徳子の安産祈願の大赦が出され、康頼とともに赦免され京へ戻ることができた。この時、俊寛のみは許されずに島にとどまり悲惨な死を遂げる。
帰京後は官を復し、文治元年 (1185年)に蔵人頭、建久元年 (1190年)に参議、建久5年(1194年)に皇太后宮大夫に任じられた。